文壇の反響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 07:06 UTC 版)
『春の雪』『奔馬』の刊行後の反響については、否定的なものも多少混ざっているが、概ねは好意的なものが多い。批判的なものとしては、森川達也が、作品が「荒唐無稽」だとし、北村耕は、作品に込められている「天皇崇拝思想」を批判している。 肯定的なものは、桶谷秀昭、福田宏年、奥野健男、佐伯彰一、阿川弘之、村上一郎、高橋英夫が、現代に対する挑戦、三島美学の集大成という受け止め方で、野口武彦は、『豊饒の海』を「三島由紀夫氏の『失われた時を求めて』である」と評し、三島は日本文学の遺産である「物語」を選択したと解説している。 中でも澁澤龍彦は、「戦後文学最高の達成」とした上で、そこでは「行動と認識をいかに一致させるかの問題」が作品構成の動機になって、本多は「行動という危険な領域に惹かれつつ、その一歩手前で踏みとどまる小説家の営為」を象徴的に体現している人物と説明し、三島が中村光夫との対談で、〈自分の小説はソラリスムというか、太陽崇拝というのが主人公の行動を決定する、太陽崇拝は母であり天照大神である。そこへ向っていつも最後に飛んでいくのですが、したがって、それを唆すのはいつも母的なものなんです〉 と述べていたことに触れながら、無意識の特性を持つ女(太陽)が男の「悪の芽を育て、悪を唆す」という存在でもある面を鑑みて、勲が死ぬ時に体内に太陽が入り込み、次回に女に転生するのは偶然ではなく、物語の論理的必然であると解説している。 川端康成は、『春の雪』『奔馬』を読み、「奇蹟に打たれたやうに」感動、驚喜して、『源氏物語』以来の日本小説の名作と思ったとし、以下のように高評価している。 このやうな古今を貫く名作、比類を絶する傑作を成した三島君と私も同時代人である幸福を素直に祝福したい。ああ、よかつたと、ただただ思ふ。この作は西洋古典の骨脈にも通じるが、日本にはこれまでなくて、しかも深切な作品で、日本語文の美彩も極致である。三島君の絢爛の才能は、この作で危険なまでの激情に純粋昇華してゐる。この新しい運命的な古典はおそらく国と時代と論評を超えて生きるであらう。 — 川端康成「三島由紀夫『豊饒の海』評」 『暁の寺』の刊行後には、文壇全般的な受け取られ方は芳しくはないが、佐伯彰一や池田弘太郎は、認識者の世界攻略のドラマという主題を看取し、田中美代子や磯田光一は、本多とジン・ジャンの関係性を「密通」「エロスの弁証法」と見なすことにより、認識の孕む生の豊饒さへの回路について言及している。 三島の自死による『天人五衰』刊行後には、磯田光一や田中美代子が、『豊饒の海』の前半では心情の純化や生の極限が描かれ、後半は認識者・本多が主人公となり、その結末は三島の死と表裏の関係があるとし、粟津則雄は、死の主題への偏執や、個人を越えた全体への志向を指摘している。 澁澤龍彦や奥野健男は、『天人五衰』で、三島を襲ったニヒリズムの露呈を指摘している。澁澤龍彦は、末尾の夏の日ざかりを終戦の日の風景だと指摘し、以下のように評している。 『天人五衰』のラストの夏は、輝かしい抒情の夏ではないけれども、それでもやはり終末の夏、しんとした、あらゆる物音の消え去った、そのまま劫初の沈黙と重ね合わせられるような、三島氏がどうしてもそこから離れられなかった、あの永遠の夏であることに変りはなかったのである。それは、いわば三島文学の終末の夏でもあって、私はそこに、否応なしに感動させられたのであった。 — 澁澤龍彦「ニヒリズムの凄惨な格闘」
※この「文壇の反響」の解説は、「豊饒の海」の解説の一部です。
「文壇の反響」を含む「豊饒の海」の記事については、「豊饒の海」の概要を参照ください。
文壇の反響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/21 05:18 UTC 版)
『鏡子の家』は、三島が自身の青春期の総決算、モニュメントとした野心作であったが、発表当時の作家や評論家たちの反応は冷ややかで、中には高い評価もあるが、失敗作だとみなす声の方が多く、それらの寸評は人物間の絡み合いやドラマがないといった批評内容であった。この不評は、三島にとってかなり堪え、その失望はこの作品は相当に力を注いだいただけに大きかったため、以後の三島の歩みに少なからぬ影響を与えたとされている。 臼井吉見は、「小説というよりはむしろ評論に近い性格をそなえた作品」だとし、「人物どもが相つらなり、相もつれて、壮大な人間劇を展開する小説のおもしろさを味わわせてくれることにはひどく無関心」だと評している。佐伯彰一は、「『鏡子の家』の合せ鏡が破れることを、つまり異質な要素の導入による衝撃をこそ、望まずにはいられない」とし、「全部が作者の分身で、幾つかに分けてみた分身の間には、全くぶつかり合いが起らない」と述べている。江藤淳は、「外を映すつもりがあったかな。あれは三島さんのトリックだと思うんですよ。外を映すといって内部を映す」とやや留保した言い方をしている。村松剛は、「四人の人物を圧迫するような他者がいない」とし、「対立するような、ねじ伏せにくい人間」が登場しないため、破滅が「主要人物間の劇的葛藤を通じて起こるわけではない」と評している。 肯定的な評価としては、吉田健一が、『鏡子の家』の構成力の高さに、日本の私小説的な狭さを超克する可能性を見て高評し、澁澤龍彦は、生と自然を否定する精神の昂揚を賞讃し、三島宛ての手紙で、「(この小説の本意を理解している)批評家が、日本には三人といないでしょう」と書き送っている。
※この「文壇の反響」の解説は、「鏡子の家」の解説の一部です。
「文壇の反響」を含む「鏡子の家」の記事については、「鏡子の家」の概要を参照ください。
文壇の反響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/01 06:07 UTC 版)
『愛の渇き』は三島が25歳の時の作品だが、同年発表の『青の時代』に比べると概ね好評であり、観念的ではあるが作者の将来性の期待される力作と評価されている。 本多秋五は、作者のエネルギーを感じる「力作」で、終りの殺人の場面などは肯定するが、「ヒステリーとか性的倒錯とかいうものがそれだけで出て来ると、僕にはわからなくなる」とも評し、ヒロインの性格について、バカな女、ヒステリー女だと断じている。 中村光夫は、本多の意見に対して、「あの女はこの小説のなかで一番健康で本物の人間だ」として、「作者がそう信じて書いているから美しいんだ」と弁護した。そして前半は「非常にいい」が、終りは「ちょっと手を抜いたような感じ」としながらも、三島の「一種のイデエ」である悦子という女を、「イデエからあれだけの人間をつくりだしたということ」はかなり成功しているとし、「エスキッスとしては非常に立派」で将来性は期待できると同時に、観念的であるゆえに「肉付けの足りなさ」はあると評している。
※この「文壇の反響」の解説は、「愛の渇き」の解説の一部です。
「文壇の反響」を含む「愛の渇き」の記事については、「愛の渇き」の概要を参照ください。
文壇の反響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 08:42 UTC 版)
『絹と明察』に対する同時代の反響は、概ね好意的なもので占められ、主人公・駒沢の人物造型への共感や讃辞が多く見られる。第6回毎日芸術賞の文学部門賞も受賞し、総じて高い評価となっている。 磯田光一は、「極度の無私と無欲」に貫かれている駒沢の家父長倫理の「壮大な世界観によって再構成された現実」(夢想)が、「現実」によって崩壊し、挫折した駒沢の「諦念と赦しの心に調和した」最終章の「京都の静謐」が美しく印象的だとし、「古都に生きている日本の自然」、「東洋的な無と諦念」が駒沢を包みながらも、それは己のかけがえのない〈宿命〉に対する「無限の愛惜であり、慟哭」だと看取している。そして、「明敏な岡野」と「愚かな駒沢」のどちらが果たして「人生にたいする本当の〈明察〉を持っていたか」と磯田は提起しつつ、人生には「見ようとすることによってかえって物を見失い、素直に盲になりきることによって本当に物を見ることができるという逆説もまた成立している」とし、そういった「人間性の背理」に目をそむけては、「人生や芸術」について語れないとし、以下のように考察している。 駒沢よりも賢明な岡野でさえも、駒沢の持っている不思議な魅力の前には抗することができないのである。そして、この最も古風な、最も愚かな倫理への献身を、自ら選んだ「運命」として生きぬいた駒沢の上にこそ、読者の共感は否応なしに集まってしまうのである。これはどうしようもない事実なのだ。実生活の上では、私たちは賢明に世に処さなければ身が持てぬ。しかし芸術こそは、そういう賢明さをこえた、もう一つの「英知」によって支えられたものなのではなかろうか。 — 磯田光一「家父長倫理の挫折――『絹と明察』について」 村松剛や奥野健男も、駒沢の人物像に強い共感を示している。村松は日本主義と取り組んでいることも指摘し、 伊藤整も日本的精神風土を問題とした点を評価している。唯一、否定的評価をしている小田切秀雄は、労働争議の描き方が一面的で片寄っていると批判し、磯田や奥野の評まで批判している。 高橋和巳は、小説の構成上や物語内の役割としての駒沢の人物造型を賞讃し、山本健吉や佐伯彰一も同様に評している。森川達也は、「人間不信を主題とした、暗いニヒリズムの作品」だと捉えている。
※この「文壇の反響」の解説は、「絹と明察」の解説の一部です。
「文壇の反響」を含む「絹と明察」の記事については、「絹と明察」の概要を参照ください。
文壇の反響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 10:19 UTC 版)
『美しい星』の発表当時の反応は概ね肯定的なものが多いが、中にはその評価を巡って評者同士の激しい論戦にまで発展するなど、大きな波紋を呼んだ。谷崎潤一郎なども、この作品に関心を寄せて高評し、人を介して三島にその旨を伝えていた。 平野謙は、大杉と羽黒らの論争を作品の中心部と捉えつつ、その白熱部が三島自身の現代人・現代史批判ともなっている注目点とし、「作者の迅速な頭脳回転の速度と小説ジャンルの拡大の意欲に、ひとまず敬意」を表しつつ、三島の試みを評価している。村松剛は、現代的なテーマである〈人類の滅亡〉という巨大な不安を、「ともかくこれだけうまくあつかい得た作品は、ほかにはなかったのではないか」と高評している。 大岡昇平は、「五十頁に及ぶ宇宙的対話」により、「われわれははじめて対話をクライマックスとする小説を持った」と賞讃しながら、『仮面の告白』『鏡子の家』を経て、『美しい星』に至る「思想小説」を、『金閣寺』よりも三島文学の「主流」だとしている。高橋和巳は、大杉と羽黒ら二組の対立を「エロスとタナトス」の大討論と見ながらも、大岡とは違って『金閣寺』の方が傑出した作品だと分析している。 手塚富雄は、三島がそれまでの日本文学のルールを破り、「仮構とイロニーによって、新生命を開こうと意図している」ことは理解しつつも、「趣向を立てようとする作者の熱意が既成のルートの上のもの」で、「意欲と方法だけでは新しい文学はうまれない」と説いて、「精巧極まる文学機械」に三島を喩えつつ、「伝統と現代との両者の感覚をふまえた最高級の戯作者になる資質と方向」を『美しい星』に看取している。 武田泰淳は、三島が「人間が生み出す美と愛に、あまりにも熱心にこだわりすぎるからこそ、地球以外の星を、小説の要素にとり入れたのだ」とし、「(対立する二組が)悪の黒、善の白と衣裳と化粧が色わけされて、象徴的に単純化されているところがふつうのリアリズムに欠けている美学的な成功を可能にしている」と指摘している。 江藤淳は、「SFという現代通俗小説の一ジャンルの道具だてを意図的に使用」して、「現代生活の中に涸渇しかけている神話を呼び戻すのに役立て」た、その方法の巧みさを高く評価し、「宇宙人と人間との接点から従来の三島文学に乏しかった一種のヒューモアが生出している」と述べている。 磯田光一は、『美しい星』を「思想の現実性」、「イデオロギーの現実性」を見事に描きつくした「真に独創的な政治小説」だと賞讃し、「政治と文学」という発想から始まった「〈戦後文学〉の方法的盲点への鋭い批評になっている」と解説している。そして「絶望的なニヒリズム」がにじむ論争部には、「宇宙の巨大な意志の前には、進歩も革命もすべて相対的なものにすぎない」ということが示唆され、戦時中日本の勝利を願い〈世界各国人が詩歌をいふとき、古今和歌集の尺度なしには語りえぬ時代〉の到来を固く信じていた三島が、敗戦を〈輝かしい中世〉の崩壊として受け止めねばならなかった戦後の苦渋の虚無感が色濃く反映されていると指摘して、以下のように文壇に問題提起した。 (三島)氏のニヒリズムの強烈なリアリティと、現代への痛烈な批評性とを黙殺することはできない。(中略)「政治と文学」という発想から出発した戦後文学は、政治の圧力による人間性の被害を描く点では成果をあげてきた。しかし三島氏のこの作品のように政治とエロスとの接点を通じて「思想」の劇を定着した作品を、私たちは他にほとんど持っていないのである。三島氏を反動呼ばわりする暇があったら、この斬新な政治小説の方法的な可能性について、徹底した考究を試みるべきではあるまいか。 — 磯田光一「新しい政治小説――『美しい星』について」 奥野健男は『美しい星』を、安部公房の『砂の女』と同じく、「政治の中の文学」から「文学の中の政治」へとコペルニクス的逆転を果たした「画期的政治小説」だと賞讃し、従来の「政治と文学」理論は破産したと述べている。 一方、この奥野の意見に対し、武井昭夫や玉井五一らが、文学は現実の変革に寄与すべきであるという立場からこれに応酬し、またそれに対して磯田光一や桶谷秀昭らが参戦して、激しい論議が展開された。 安部公房は、暁子を誘惑する竹宮が「耽美的な美の権化」のような存在でも、大杉一家の意志には、何の傷も残さないことから、「円盤によって象徴される美」は決して「耽美主義的な閉鎖的なものではない」ことが示されているとしている。また、主人公の大杉重一郎が、親の遺産で食いつないでいる無力な没個性的な小市民でなければならなかった理由を、「美を感性的なものから、思想的なものにするためには、善の宇宙人一家に、ほかのいかなる属性があっても困るのだ。その存在理由の希薄さゆえに、この宇宙人の思想は、かえってのっぴきならない普遍性を獲得することになる」と考察しながら、昨今、「思想とまともに取組んだ作品」がほとんど見られない中で、『美しい星』は「特筆すべき貴重な作品」だと評して、自身の好きな小説のアンソロジーの中に、『美しい星』を挙げている。
※この「文壇の反響」の解説は、「美しい星 (小説)」の解説の一部です。
「文壇の反響」を含む「美しい星 (小説)」の記事については、「美しい星 (小説)」の概要を参照ください。
- 文壇の反響のページへのリンク