現代へ
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第一次世界大戦後の1918年に西部は独立したポーランド共和国の領土とされた(タルノプジェク共和国(英語版))。一方、東部ではウクライナ人勢力により西ウクライナ人民共和国の独立が宣言された。ポーランドは同国に侵攻し、軍事力のもとに屈服させた。その後、赤軍勢力によるガリツィア・ソビエト社会主義共和国(英語版)が建国されたが、赤軍はポーランド・ソビエト戦争に敗れ、1923年までにガリツィア全域がポーランド領となった。これにより、ポーランドはかつてのような大きな国土を領有するようになった。 第二次世界大戦前、ポーランドは分割され西ウクライナ(ウクライナ語版)はハンガリー、ルーマニア、そしてソ連によって支配を受けるようになった。戦後は西ウクライナは一括してソ連領となり、ガリツィアもウクライナ・ソビエト社会主義共和国に編入された。ソ連の崩壊後は、独立したウクライナの領土となって今に至っている。
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現代へ
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その幻となっていた風通織を苦労の末復活させ発展させたのが倉吉在住の染織家・吉田たすくである。吉田たすくは残された小裂きの風通織や絣のもつ奥深い美しさにいとおしさを感じ、なんとか倉吉で再現させようと考えるようになった。そして昭和30年頃倉吉の旧家から辛うじて数冊の織物の伝書を入手する。伝書の中には落丁しているものや虫食いで判読不能なものも多く、読むことすら難儀なものもあった。沖縄や日本各地、タイ・インドネシア・メキシコなどへ出かけて染織の研究をする中で何度も試織りを繰り返し20年の歳月を掛けようやく一冊の本 『倉吉地方明治中期 そ志き織と風通織』に仕上げて発表する。 吉田たすくは現代生活にあう新しい絣、新しい織物を作ろうと倉吉絣を発展させシルクや草花から採った染料を使い「綾綴れ織(あやつづれおり)」「たすく織」を開発し、東京銀座や日本各地で発表を行い、多くの方々に広め、新匠工芸会の稲垣賞を受賞するなど倉吉絣の発展に貢献した。さらに様々の所で講演をしたり実技指導を行い若手の育成にも努め、機を織る若者も少しずつふえている。 しかし、これからを嘱望されながら1987年に65歳で死去。たすくの織りは三男の吉田公之介に受け継がれた。吉田公之介は父たすくと同じ新匠工芸会の会員となり「綾綴れ織(あやつづれおり)」「たすく織」を織り続けながら「絣美術館」(鳥取短期大学 絣美術館)の館長も務め、倉吉絣の発展にも努めている。また、福井貞子を代表に「倉吉絣保存会」も発足して織り方の普及などを行い今では倉吉で手織りをする人もようやく100人弱まで増えている。 さらに昭和末期頃より手づくりの見直しやカルチャーブーム、地方再生などによる伝統文化の見直しや保護などもあり 子育てを終わった世代やリタイア世代を中心に絣を織ろうとする人たちが徐々にではあるが、増えてきている。 自分たちでより深く覚えたいと、絣の技法書を求める声が鳥取県外も含め各地でも増えており、その声で吉田たすく著『図説 紬と絣の手織技法入門』などの、わかりやすい技法書の復刻版も再版されるなどの動きもでてきている。
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