僻地での立地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 22:48 UTC 版)
「福島第一原子力発電所の用地取得」の記事における「僻地での立地」の解説
また、このような僻地に発電所を設置した技術的な理由は、当時の日本の原子力発電所設置の考え方として「万一の原子炉設備の破壊事故により放射性物質の大気拡散時に周辺公衆に重大な災害を及ぼさない」ため「発電所敷地を高い人口地帯から出来るだけ離すことを必要」としたからであった。具体的には上述のように非居住区域の設定、立地も過疎地帯が選ばれた。福島県は関係情報を収集する目的もあり原子力産業会議に加盟したが、県企画開発部にて調査研究を担当した酒井信夫は非居住地の取り方について「事故発生後2時間以内に受ける線量25ミリレム以上の区域」として最低600mを示しているが、当時の大熊町では1200mの距離を取ることが可能とした。また、その周囲の低人口地帯の取り方について「人口二五,〇〇〇人以上の町の距離までは低人口地帯の外側境界までの距離の一.三三倍以上あること」と条件を設定、大熊町がその条件を満たすと結論した。 この用地取得が迅速に進んだ背景として原子力産業会議は: 開発後進地域で現地当事者の希望が大であった。 1957年に、大熊では早稲田大学・東京農業大学への委託で開発総合調査を実施しており、自主的に地域開発への歩みを進めていた上、部落も第二次世界大戦中に旧来のものを細分化して行政下部機関として改組した。 隣接地区では精農家が多く、生産意欲が大きいため反対機運があったが、当地区では開拓農家が主体で生産力・定着力共に低かった。 買収地区に一会社の遊休地が含まれていた。 を挙げているが、『大熊町史』では上記を取り上げた上で、次のような反論を掲げている事を付記しておく。 要するに、過疎地ということであろうが、敷地の概況として福島原子力発電所の立地点は、東京の北方約二二〇キロメートル(中略)原子炉の設置地点から最寄りの人家までの距離は約一キロメートルで、周辺の人口分布も希薄であり、近接した市街地としては約八.五キロメートルに、昭和四十(一九六五)年十月現在人口約二万三〇〇〇人の浪江町がある。 としていることから分かるように、東京から遠いこと、人口稠密の地域から離れていることが立地条件として考慮されていることからすれば、いかに技術的安全性が強調されようとも原子力発電所の性格なるものが如実にしめされているといわざるをえないであろう。しかも、浪江町よりも近いところに当時人口七六二九人の地元の大熊町、隣接の人口七一一七人の双葉町、人口一万一九四八人の富岡町があることは、この説明からすっぽりと脱落している事実に気づかなければならない。二万人以上の町なら市街地として扱うが、一万人前後の町は配慮の対象にならないという論法が、要するに原子力発電所の立地が東京からの距離の遠さを力説する形で適地の判断がなされることにつながっているのである — 第四章 電力「原子力発電所用地の選定」『大熊町史』1985年3月p.837
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