6区 (パリ)
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著名な居住者
王族・貴族・軍人
- マリー・ド・メディシス(ブルボン朝創始者アンリ4世の2番目の王妃、ルイ13世の母) - リュクサンブール宮殿に居住。
- アンリ2世(第3代コンデ公) - アンリ2世から歴代コンデ公(1612-1770年)が Hôtel de Condéに居住していた。
- マルグリット・ド・ロレーヌ(ルイ13世の弟オルレアン公ガストンの2番目の妃) - 夫の死後、ブロワ城からリュクサンブール宮殿に移り住んだ。
- ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエール(のちのルイ14世の公妾) - 当時はマルグリット・ド・ロレーヌ女官だった母と共にブロワ城からリュクサンブール宮殿に付き従い移り住んだ。
- モンテスパン侯爵夫人(ルイ14世の公妾) - 結婚後の1663年以降から公妾になる間、旧タラヌ通りに居住。
- モンパンシエ公爵夫人(ルイ13世の弟オルレアン公ガストンと最初の妃モンパンシエ公爵夫人マリーとの娘) - あるいはモンパンシエ女公。アンリ4世とマリー・ド・メディシスの孫。晩年リュクサンブール宮殿に居住。
- ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス(ブルボン朝始祖アンリ4世娘、かつイギリス王チャールズ1世王妃)
- 清教徒革命(イギリス革命)最中、サン=ジェルマン=アン=レー城に身を寄せ王党派を糾合、またシャイヨ修道院 (Couvent des Visitandines de Chaillot) を建造し、1651年から10年ほど当修道院に居住した。1665年からバズィニエール館 (後のシメイ館, Hôtel de Chimay, 1883年からボザール校舎) に居住。
- マリア・アンナ・マンチーニ(ゴドフロワ=モーリス・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ (Godefroy-Maurice de La Tour d'Auvergne)の妻、マザリネット) - 1681-1714年の間、バズィニエール館(後のシメイ館)に居住。
- シャルル・ゴドフロワ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ - 1741年以降、バズィニエール館(後のシメイ館)に居住。
- メルキオール・ド・ポリニャック(1661-1741、枢機卿、ルイ14世・ルイ15世期の外交官)
- ステファニー・タシェル・ド・ラ・パジュリー (Stéphanie Tascher de La Pagerie (1788 - 1832)、ジョゼフィーヌの従姉妹) - 1808年2月、7代目アーレンベルク公爵プロスペール=ルイ (Prosper-Louis d'Arenberg (1785 - 1861)) と結婚後、ナポレオンよりバズイニエール館(後のシメイ館)を与えられ居住。
- ジョゼフ・ド・リケ・ド・カラマン=シメイ(17代目シメイ公爵) - 1852年バズイニエール館(シメイ館)を購入し居住。
- モーリス・ド・サックス(フランス大元帥) - 1744-1747年の間、マラケ河岸3番地に居住。
- プロヴァンス伯(ルイ16世の弟、復古王政期にルイ18世に即位) - リュクサンブール宮殿に居住。
政治
- オランプ・ド・グージュ(フェミニスト、政治活動家) - フランス革命の恐怖政治期にギロチン刑に処された。セルヴァンドニ通り 18番地に居住。当通りにプラークが掲げられている。また、サントノレ通り界隈にも居住した。
- マクシミリアン・ロベスピエール(政治家・仏革命指導者) - フランス革命期に恐怖政治体制を敷き、1790年から1794年にギロチン刑に処されるまでボナパルト通り88番地に断続的に居住。その他サントノレ通りの下宿先に居住した。
- ジャン=ポール・マラー(政治家・仏革命指導者、医師) - エコール=ド=メドゥシーヌ通り 20番地に居住滞在していた折、"暗殺の天使"ことシャルロット・コルデーに刺殺された。
- ポール・バラス(貴族、政治家) - 総裁政府総裁の筆頭時、リュクサンブール宮殿に居住
- ルイーズ・ミシェル(無政府主義者)- ジャコブ通り2番地に居住
- ヴィリ・ミュンツェンベルク(ドイツ人共産主義者) - モンパルナス大通り83番地に居住
- アンリ・モルダック(政治家、ジョルジュ・クレマンソー内閣国防大臣) - ラスパイユ大通り (Boulevard Raspail) 95番地に居住
- フランソワ・ミッテラン(政治家、フランス大統領) - パリ大学で学ぶ際、上京しヴォージラール通り104番地の教会学生寮に居住
- エドアール・バラデュール(政治家、フランス首相) - 若年期、ヴォージラール通り104番地の教会学生寮に居住
- アンドレ・ベタンクール(政治家)
- 若年期、ヴォージラール通り104番地の教会学生寮に居住。妻は7区出身のロレアル創業者娘リリアンヌ・ベタンクール、娘はフランソワーズ・ベタンクール・メイヤー。ベタンクール死後、1470億円相当の財産を年下男に貢いだ母リリアンヌと娘フランソワーズとの法廷闘争は、当時のニコラ・サルコジ大統領らへの政界贈収賄汚職騒動にまで発展した。
- シモーヌ・ヴェイユ(政治家) - シモーヌ・ヴェイユ (哲学者)とは別人。ナチスドイツの強制収容所から解放後の戦後、サン=アンドレ=デ=ザール広場 (Place Saint-André-des-Arts) 界隈に居住し、そのキャリアを始めた。その後7区ヴォバン広場に居住
- ピエール・ド・ベヌヴィル(政治家、レジスタンス・自由フランス軍人) - 若年期、ヴォージラール通り104番地の教会学生寮に居住
- リオネル・ジョスパン(政治家、フランス首相)
財界
- マックス・グアズィニ(実業家) - マルチメディアのNRJ Group創業者。ヴォージラール通り104番地の教会学生寮に居住。
学者
- ドニ・ディドロ(哲学者、啓蒙思想家、百科全書派) - 1754-1784年の間、旧タラヌ通り界隈建物の4階5階に居住。
- ヴォルテール(哲学者、啓蒙思想家、百科全書派) - ボナパルト通り界隈に居住
- ピエール=シモン・ド・ラプラス(数学者) - グラン=オーギュスタン(河岸)通りのフェドゥ・ド・モントロン館 (Hôtel Feydeau de Montholon) に居住
- ニコラ・ド・コンドルセ(社会学者、哲学者、数学者) - フランス革命期の1793年7月8日の議会による逮捕命令後、セルヴァンドニ通り 21番地に隠遁してるのを見つかる。のち自死
- オーギュスト・コント(総合科学者、社会学者、哲学者、数学者) - モンペリエ出身。1818-22年の間、ボナパルト通り36番地に居住
- ジャン=マルタン・シャルコー(神経医学者、パーキンソン病の名付け親) - 9区フォーブール=ポワソニエール通り (Rue du Faubourg-Poissonnière) 1番地生まれ、ブルー通り (rue Bleue) 27番地育ち。医学アカデミー会員になり、1871年のシメイ館 (Hôtel de Chimay, 1883年からボザール校舎) に居住
- ジャン=ポール・サルトル - 1943年からボーヴォワールとルイジアンヌ館 (fr) に居住し、1945-62年にかけボナパルト通り42番地に母と居住
- ジョルジュ・デュメジル
- ロラン・バルト(哲学者) - セルヴァンドニ通り 11番地に亡くなるまで居住
- ジュリア・クリステヴァ
- ブルーノ・ラトゥール
- アルフレッド・マチュー・ジアール(動物学者) - スタニスラス通り (Rue Stanislas) 10番地に居住
- エドアール・ブランリー(物理学者、ラジオコンダクタの基本発明者) - 青年期はヴォージラール通り74番地の教会学生寮に居住。1940年3月、サン=ジェルマン大通り87番地で居住死去
- ジャン・ギトン(哲学者) - ヴォージラール通り104番地の教会学生寮に居住
文化
-
ミュシャ作『春』 1896
-
ルノワール作『ブージヴァルのダンス』, 1883
-
ウジェーヌ・グラッセのアール・ヌーヴォー作品展示会ポスター, 1898年 : ボナパルト通り31番地「サロン・デ・サン」(Affiche d'exposition art nouveau d'Eugène Grasset, 1898 : Salon des Cent, 31 rue Bonaparte, Paris )
-
ウジェーヌ・グラッセ作『庭園のうら若き乙女』
- ウジェーヌ・ドラクロワ(画家、ロマン主義の代表的人物)
- 9区ノートルダム・ド・ロレット通り(Rue Notre-Dame-de-Lorette)で1844-1857年を過ごし、1857年から1863年に亡くなるまで6区フルスタンベール通り(Rue de Furstemberg)6番地に居住した。居宅は現在ウジェーヌ・ドラクロワ美術館になっている。1857年から亡くなる1863年まで、サン=シュルピス教会の礼拝堂の一つを装飾する仕事のために同教会の近くにある当地に居住した[14]。1866年までドラクロワの部屋の上階でバジールとモネがアトリエを共有し、バジールは『フルスタンベール通りのアトリエ (fr) 』(1865年)を描いた。1879-90年、画家ディオジェーヌ・マイヤールが同6番地に居住した。
一時建物を取り壊し駐車場にする計画もあったが、ドラクロワ崇拝者の画家ポール・シニャックが保存に動き、今日のドラクロワ美術館になっている[14]。
- 9区ノートルダム・ド・ロレット通り(Rue Notre-Dame-de-Lorette)で1844-1857年を過ごし、1857年から1863年に亡くなるまで6区フルスタンベール通り(Rue de Furstemberg)6番地に居住した。居宅は現在ウジェーヌ・ドラクロワ美術館になっている。1857年から亡くなる1863年まで、サン=シュルピス教会の礼拝堂の一つを装飾する仕事のために同教会の近くにある当地に居住した[14]。1866年までドラクロワの部屋の上階でバジールとモネがアトリエを共有し、バジールは『フルスタンベール通りのアトリエ (fr) 』(1865年)を描いた。1879-90年、画家ディオジェーヌ・マイヤールが同6番地に居住した。
- ピエール=オーギュスト・ルノワール(画家、印象派)
- 6区内では、ヴィスコンティ通り (Rue Visconti)、ノートルダム=デ=シャン通り (Rue Notre-Dame-des-Champs) にアトリエ兼居住。1868年以降、17区ラ・コンダミンヌ通り (Rue La Condamine) 9番地に移り、友人フレデリック・バジール、エドゥアール・マネらと共に"バティニョール派 (印象派)"と呼ばれた。1873年以降は、9区サン=ジョルジュ通り (Rue Saint-Georges)に。1875年から1877年まで、18区コルトー通り12番地 (Rue Cortot, 1960年にモンマルトル美術館設立) に居住。
- リヒャルト・ワーグナー(作曲家) - ジャコブ通り14番地に1年ほど居住
- マドレーヌ・カスタン(インテリア・デコレーター)
- ジョルジュ・サンド(女流作家、貴族)
- マラケ河岸29番地に1832-1836年の間に居住。1838年、フレデリック・ショパンとのマヨルカ島への逃避行から始まり、アンドル県シャトールー近郊ノアン、1839年から9区ピガル通り (rue Pigalle) 16番地のサンドの家で同棲。ヴァカンスの時期はノアンで過ごした。1842年から9区スクワール・ドルレアン (Square d'Orléans) の隣同士の番地建物で暮らした。
- ヴィクトル・ユーゴー(作家) - 1824-1827年の間、ヴォージラール通り88番地に居住。1824年に娘レオポルディヌが出生。その後4区ヴォージュ広場等の他、最期は愛人ジュリエット・ドルエと16区ヴィクトル=ユーゴー大通りリュジニャン公妃館に居住
- フランソワ・ジェラール(画家) - ボナパルト通り34番地に居住
- ジャン=レオン・ジェローム(画家) - フルリュース通り27番地に居住。
- パブロ・ピカソ(画家) - モンマルトルからモンパルナス、モンルージュ、パリ8区ボエシー通りを経て、1936年からグラン=ゾーギュスタン(河岸)通り (Quai des Grands-Augustins) 7番地に、20年間ほどアトリエ兼居住[15]
- ジャン・ラシーヌ(17世紀古典主義劇作家) - グラン=ゾーギュスタン(河岸)通り17番地に居住
- アルベール・マルケ(画家、フォービズム、ポスト印象派) - グラン=ゾーギュスタン(河岸)通り25番地にアトリエがあった。
- ポール・ゴーギャン(画家) - モンパルナスのグランド=ショミエール通り 8番地にアトリエ兼居住
- アメデオ・モディリアニ(画家) - 1917年からその死の1920年までジャンヌ・エビュテルヌと上記グランド=ショミエール通り8番地にアトリエ兼居住
- アルフォンス・ミュシャ(画家) - 1890年代グランド=ショミエール通り13番地に、さらに近隣5区 ヴァル=ド=グラース通り 6番地にアトリエ兼居住
- マルグリット・デュラス(作家、脚本家)
- ナンシー・キュナード(英女性詩人、前衛芸術家、反差別政治運動家)
- ミナ・ロイ(英女性詩人、前衛芸術家、ボヘミアン) - ミュンヘン、パリモンパルナス、フィレンツェ、ニューヨークに居住した。1921-1936年の間、サン=ロマン通り (Rue Saint-Romain) 9番地に居住
- エズラ・パウンド(英前衛芸術詩人、批評家、作曲家) - 1921-1924年の間、ノートルダム=デ=シャン通り (Rue Notre-Dame-des-Champs) 70bisに居住[18]
- アレクサンドル・チェレプニン(ピアニスト、作曲家) - フルスタンベール通り(Rue de Furstemberg)2番地に居住。プラークが掲げられている
- ジャン・アヌイ(作家、劇作家) - フルスタンベール通り8番地に1914年から居住
- ホルヘ・ルイス・ボルヘス(作家) - ボザール通り13番地に居住
- ガートルード・スタイン(米女性現代美術収集家、作家)
- 同性パートナーのアリス・B・トクラスとフルリュース通り27番地に居住し、サロンを開いていた。死地はヌイイ=シュル=セーヌ。
- ナタリー・クリフォード・バーネイ(米女性作家)
- スコット&ゼルダ フィッツジェラルド夫妻(作家) - 4月〜10月の季節の間、ヴォージラール通り58番地に居住していた。
- ヘンリー・ミラー(米国の作家) - ルイジアンヌ館 (fr) やボナパルト通り24番地に居住
- ボリス・ヴィアン(作家、トランペット奏者) - ルイジアンヌ館に居住
- アイリーン・グレイ(プロダクトデザイナー) - ボナパルト通り21番地に居住
- レオン・デシャン(出版・編集者)- ボナパルト通り31番地に「サロン・デ・サン」を開いていた。
- ジョルジュ・ウォランスキ(漫画家、風刺画家)- ボナパルト通り34番地に居住
- フランシス・プーランク(作曲家、フランス6人組)
- 1899年、仏内務省がある8区マドレーヌ地区ソッセ広場 (fr) 2番地生まれ。1927年、トゥレーヌ地方トゥール近郊ノワゼ (fr) に Le Grand Coteau を購入し、創作活動の場合ここに籠もり『ナゼルの夜会』などを完成。6区メディシス通り (Rue de Médicis) 5番地で居住死去。
- アンドレ・ジッド(作家、ノーベル文学賞) - メディシス通り19番地(現在のエドモン=ロスタン広場, Place Edmond-Rostand2番地)に居住[19]
- クロード・シモン(作家、ノーベル文学賞) - ルイジアンヌ館 (fr) に居住。1965年から亡くなる2005年までは5区モンジュ広場 (Place Monge) 3番地に居住[20]。
- アルベール・カミュ(作家、ノーベル文学賞) - 同上ルイジアンヌ館に居住
- アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(作家、操縦士) - 同上ルイジアンヌ館に居住
- フランソワ・モーリアック(作家、ノーベル文学賞) - ヴォージラール通り104番地の教会学生寮に居住
- クロード・ロイ(詩人、エッセイスト、ゴンクール賞受賞者) - 同上
- テオドール・ド・バンヴィル(詩人、批評家) - レペロン通り (Rue de l'Éperon) 10番地に居住し亡くなる。当建物にプラークが掲げられている。
- クヌート・ハムスン(ノルウェーの小説家、ノーベル文学賞) - 1893-1895年の間、ヴォージラール通り8番地に仕事で居住
- ウィリアム・フォークナー(米国の小説家、ノーベル文学賞) - 1925年秋、セルヴァンドニ通り 26番地居住。当通りにプラークが掲げられている。
- ポール・アルザン(工業デザイナー) - ヴォージラール通り89番地に居住
- ジャン・デュビュッフェ(画家、アンフォルメルの先駆者) - ヴォージラール通り114番地に居住
- ヴィーコ(画家) - ジャコブ通り6番地に居住
- モンパルナス大通り (Boulevard du Montparnasse) 居住者
- レオン=ポール・ファルグ(詩人) - 1935-1947年の亡くなるまでの間、1番地に居住
- ジェルメーヌ・セイエ(ジェルメーヌ・セリエ, 調香師) - ボルドー生まれ。第二次世界大戦後、23番地にテニス選手クリスチャン・ブーシュ(Christian Boussus) と居住。それ以前は、7区リール通り19番地に画家でレジスタンス活動家ジャン・オベルレ (Jean Oberlé) と居住していた。ブーシュとはモンパルナスから後1955年以降8区ボカドー通り8番地に居住
- ポール・ランソン(画家、ナビ派、ポスト印象派) - 25番地に居住
- デイヴィッド・ハミルトン(英国人写真家) - 41番地に居住し2016年に亡くなる
- カロリュス=デュラン(画家) - 81番地にアトリエがあり、学んでいた3分の2は英米人だった。1874年からジョン・シンガー・サージェント(米国人画家) がアトリエで学んでいた。後に135番地にアトリエを移動。また同81番地建物内のとあるアトリエでは、1872-1877年の間オディロン・ルドンが働いていた。
- ニコラ・ド・スタール(ロシア人画家) - 83番地に居住
- ヨハン・ヨンキント(版画家、画家、印象主義の先駆者) 1846年に127番地に居住し、同地にプラークあり
- ポール・クローデル(外交官、作家)、カミーユ・クローデル(女流彫刻家)姉弟 - 1882-1886年の間、135番地bisに居住
- アーネスト・ヘミングウェイ(作家)&ハドリー・リチャードソン夫妻(元夫妻) - リュクサンブール庭園南隣接グラン・エクスプロラトゥール庭園 (Jardin des Grands-Explorateurs Marco-Polo et Cavelier-de-la-Salle) 付近、オプセルヴァトワール大通りとの交差点界隈171番地にあるブラッスリー「クロズリー・デ・リラ」と同建物に居住
芸能
- ジェラール・フィリップ(男優)
- ジュリエット・グレコ(シャンソン歌手、女優) - ゲシュタポにより収容されたフレンヌ監獄から早期釈放後、サンジェルマン・デ・プレのセルヴァンドニ通り 18-20番地に、1946年からはベルナール・クアンタン (fr) と7番地に居住。18-20番地はかつてオランプ・ド・グージュが居住した地。次いで、サルトルによりルイジアンヌ館 (fr) に居住。
- マイルス・デイヴィス(米トランペット奏者) - 同上ルイジアンヌ館に居住し、グレコと近しい関係になる。
- カトリーヌ・ドヌーヴ(女優) - ボナパルト通りや16区ラ・ミュエット界隈イムーブル・ワルテール等に居住
- ロミー・シュナイダー(女優) - ボナパルト通り34番地、7区バルベ=ド=ジュイ通り 11番地に居住し亡くなった。
- アラン・ドロン(男優)
- デビュー前、モンマルトル界隈で仕事を転々ブラブラしていたが、のちブリジット・オベールとサンジェルマン・デ・プレに身を置き、ジャン=クロード・ブリアリとも知り合う。大成してから後は、ロミー・シュナイダーと16区プレジダン=ケネディ通り沿い等に居住
- フィリップ・リゾリ(テレビ番組パーソナリティ)
スポーツ
- エレーヌ・ブーシェ(パイロット) - レンヌ通り169番地に居住
その他
- ヴァンサン・ド・ポール(カトリック司祭) - 1610-1612年の間、セーヌ通り1番地ないし奇数地界隈に居住。1633年、現在の10区に中世の時代からあり、らい病を患った人たちの療養収容施設だった"サン=ラザールの囲い地 (Enclos Saint-Lazare)"に、1633年、ルイーズ・ド・マリヤックと共に聖ビンセンシオ・ア・パウロの愛徳姉妹会を設けた。
- 栗本鋤雲 - 徳川昭武随行幕府派遣公使として幕末の慶応3年9月(1867年)から9か月間滞仏した際、滞在途中で幕府が倒れた報を聞き、16区の邸宅から経費節約のためジャコブ通りに居を移した[21]。
注釈
- ^ 「レ・ドゥ・マゴ」または「ドゥマゴ」と表記されることもある。
出典
- ^ フランス語の 「6e 」 = 「sixième 」 は、英語の「sixth 」 に相当する序数。「第6の」 「6番目の」を意味する。したがって、原語の「6e arrondissement 」を直訳すると「第6区」となる。
- ^ レジフランス (Légifrance). “地方自治一般法典 (Code Général des Collectivités Territoriales (CGCT))” R2512-1条. 2008年6月26日閲覧.
- ^ セーヌ川の左岸にあたる。
- ^ 地球の歩き方編集室編 『地球の歩き方A07・パリ&近郊の町 2007〜2008年版』 ダイヤモンド社、2007年、p.254.
- ^ JTBパブリッシング編 『ワールドガイド ヨーロッパ2・パリ』 JTBパブリッシング、2006年、p.162.
- ^ 地球の歩き方編集室編 『地球の歩き方A07・パリ&近郊の町 2007〜2008年版』 ダイヤモンド社、2007年、p.281.
- ^ 地球の歩き方編集室編 『地球の歩き方A07・パリ&近郊の町 2007〜2008年版』 ダイヤモンド社、2007年、p.132.
- ^ JTBパブリッシング編 『ワールドガイド ヨーロッパ2・パリ』 JTBパブリッシング、2006年、p.18.
- ^ 海外業務提携一号店にあたる同カフェは『ドゥマゴ パリ』 トランジットジェネラルオフィス公式HPを、同ブーランジュリーは『ドゥマゴ』 サンジェルマン公式HPをそれぞれ参照。
- ^ 『ラ・クローズリー・デ・リラ La Closerie des Lilas』 paris-bistro-japon
- ^ 地球の歩き方編集室編 『地球の歩き方A07・パリ&近郊の町 2007〜2008年版』、ダイヤモンド社、2007年、p.360.
- ^ 1993年に同通り29番地で創業し、イタリアの他、1998年から南青山骨董通りでも展開するクラシックモダンな家具雑貨などのインテリアショップ(仏公式HP (仏語)、Maison de famille (メゾン ドゥ ファミーユ) besanee 2015年10月25日)。
- ^ Mary Ann Caws, Les Vies de Dora Maar : Bataille, Picasso et les surréalistes, Paris, Thames & Hudson, , 224 p. (ISBN 2878111850), p. 13228 illustrations dont 87 en couleurs.
但し、日本ではユーゴスラビア生まれ、アルゼンチン生まれとする解説もある。 - ^ a b « Rue de Furstemberg, dans le 6e arrondissement », Paris, de Lutèce à nos jours, no 19, décembre 2018, janvier février 2019, Édition Soteca (ISSN 2271-9083).
- ^ AU 7 RUE DES GRANDS AUGUSTINS La renaissance de l'Atelier de Picasso パリ・マッチ 2015年7月16日
- ^ Nancy Cunard: Heiress, Muse, Political Idealist Lois G. Gordon, Professor Lois Gordon Columbia University Press, 2007. 118 p
- ^ he Golden Moments of Paris: A Guide to the Paris of the 1920s John Baxter, Museyon, 2014/03/01. 233 p
- ^ Wilhelm, James J. (2008). Ezra Pound in London and Paris, 1908–1925. 287 .p, University Park, PA: Pennsylvania State University Press. ISBN 978-0-271-02798-2
- ^ Claude Martin, André Gide ou la vocation du bonheur , tome 1, éditions Fayard, p. 37.
- ^ « Place Monge (Paris) » associationclaudesimon.org.
- ^ 井田進也「栗本鋤雲の函館」『大妻比較文化 : 大妻女子大学比較文化学部紀要』第12巻、大妻女子大学、2011年、146-139頁、ISSN 1345-4307、NAID 110008425418。
- ^ Knightley, Emma (29 November 2017). Princely Monaco XXI: The House of Grimaldi in the 21st Century. ISBN 9780359058945
- ^ 地球の歩き方編集室編 『地球の歩き方A07・パリ&近郊の町 2007〜2008年版』、ダイヤモンド社、2007年、p.126.
- ^ ジュウ・ドゥ・ポゥム 『映画でお散歩パリガイド』、主婦の友社、2005年、p.101.
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