菊池寛 経歴

菊池寛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/19 02:20 UTC 版)

経歴

生い立ち

15歳の菊池

香川県香川郡高松七番丁六番戸の一(現・高松市天神前4番地)で7人兄弟の四男として生まれる。菊池家は江戸時代高松藩儒学者の家柄で、日本漢詩壇に名をはせた菊池五山は、寛の縁戚に当たる。しかし、寛の生まれたころ家は没落し、父親は小学校の庶務係をしていた[1]。高松市四番丁尋常小学校を経て高松市高松高等小学校に進学。しかし家が貧しかったため、高等小学3年生の時は教科書を買ってもらえず、友人から教科書を借りて書き写したりもした。このころ、「文芸俱楽部」を愛読し、幸田露伴尾崎紅葉泉鏡花の作品に親しむ[2]

学生時代

1903年(明治36年)高松中学校に入学。寛は記憶力が良く、特に英語が得意で、外国人教師と対等に英会話ができるほどだった。図画や習字は苦手だったが一念発起して勉強に取り組み4年の時に全校で首席になった。中学3年の時、高松に初めて図書館ができるとここに通って本を読み耽り、2万冊の蔵書のうち、歴史や文学関係など興味のあるものはすべて借りたという[3]

中学を卒業した後、成績優秀により学費免除で東京高等師範学校へ進んだものの本人は教師になる気がなく、授業を受けずテニスや芝居見物をしていたのが原因で除籍処分を受けた[4]。地元の素封家の高橋清六から将来を見込まれて養子縁組をして経済支援を受け、明治大学法科に入学するも3か月で退学。徴兵逃れを目的として早稲田大学に籍のみ置く。文学の道を志し第一高等学校受験の準備をする。これが養父に発覚し、縁組は解消。進学が危ぶまれたが、実家の父親が借金してでも学費を送金すると言ってきたことで道が開ける[5]

1910年(明治43年)、第一高等学校第一部乙類に22歳で入学。同期入学には後に親友となり彼が創設する文学賞に名を冠する芥川龍之介久米正雄、井川恭(後の法学者恒藤恭)がいた。しかし卒業直前に、盗品と知らずマントを質入れする「マント事件」が原因となり退学[6][7]。その後、友人・成瀬正一の実家から援助を受けて京都帝国大学文学部英文学科に入学したものの、旧制高校卒業の資格がなかったため、当初は本科に学ぶことができず選科に学ぶことを余儀なくされた。本来は一高の友人らと同じく東京帝国大学に進みたかったが、上田萬年の拒絶のため叶うことはなかった。京大選科の時に『萬朝報』の懸賞に応募した短編小説「禁断の木の実」が当選。翌年旧制高等学校の卒業資格検定試験に合格し本科に移る。

この京大時代では文科大学(文学部)教授となっていた上田敏に師事した。当時の失意の日々については(フィクションを交えているが)「無名作家の日記」に詳しい。1人京都の地で孤独や焦燥の日々の中、ジョン・ミリントン・シングなどのアイルランド戯曲を読破する。東京にいる芥川、久米らの好意により第三次『新思潮』創刊同人となり、菊池比呂士、草田杜太郎の筆名で戯曲を発表する。卒業を間近にひかえた1916年(大正5年)5月、第四次『新思潮』では本名の菊池寛の名で「屋上の狂人」を発表。

人気作家への道

1919年、長崎にて。左から菊池、芥川龍之介武藤長蔵永見徳太郎

1916年(大正5年)7月、京大卒業。卒業論文は「英国及愛蘭土の近代劇」。上京して、芥川、久米と夏目漱石の木曜会に出席する[8]。成瀬家の縁故で時事新報社会部記者となり、月給25円のうち10円を毎月実家に送金する。また第四次『新思潮』に「父帰る」を発表するも、特に反響はなかった。

寛は生活のため資産家の娘と結婚することを考え、郷里に相談。1917年大正6年)、高松藩の旧・藩士奥村家出身の奥村包子(かねこ)と結婚。1918年(大正7年)、『中央公論』に発表した「無名作家の日記」や「忠直卿行状記」が高評価され文壇での地歩を築いた。1919年(大正8年)、『中央公論』に「恩讐の彼方に」を発表。時事新報を退社し、執筆活動に専念する。翌年大阪毎日新聞・東京毎日新聞に連載した大衆小説「真珠夫人」が大評判となり、一躍人気作家となった[9]

『文藝春秋』創刊

1923年(大正12年)1月、人気作家となった寛は若い作家のために雑誌『文藝春秋』を創刊する。発行編集兼印刷人は菊池寛、発売元は春陽堂、定価は10銭で、『中央公論』が特価1円、『新潮』が80銭の時代に破格の安さだった。巻頭を飾ったのは芥川龍之介のエッセイコラム「侏儒の言葉[10]。創刊号3000部はまたたくまに売り切れ、次号も売り上げを伸ばし、「特別創作号」を銘打った5号は1万1千部の売り上げとなった[11]1926年(大正15年、昭和元年)から春陽堂を離れて「文藝春秋社」として独立し『文藝春秋』は総合雑誌となる[12]。初期の編集部に石井桃子桔梗利一らがいる。また大衆作家として、婦人雑誌や新聞に多くの小説を発表していたが、1927年(昭和2年)7月25日、芥川龍之介が自殺。葬儀では友人代表として弔辞を読み上げたが、読む半ばから涙が止まらなかった[13][14]1935年(昭和10年)、新人作家を顕彰する「芥川龍之介賞」「直木三十五賞」を創設した際には11人の選考委員の1人となった[注釈 1]1926年(大正15年)日本文藝家協会を設立。

1925年(大正14年)、文化学院文学部長就任。1928年昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に、東京1区から社会民衆党公認で立候補したが、落選した。しかし1937年(昭和12年)には、東京市会議員に当選した。

言論の自由を何よりも重んじた菊池は、「左傾にしろ、右傾にしろ、独裁主義の国家は、我々人類のために、決して住みよい国ではない」と主張し[15]、政治家として、「反資本、反共産、反ファッショの三反主義」を掲げる穏健派の社会主義の社会民衆党で活動した[16]

日本が数年来、反動的な右傾時代になつたに就いては、政党政治の堕落も、その一つの原因であるが、もう一つは共産主義者の妄動である。彼等は、日本に対する正当なる認識を欠き、自己の力量をも知らず、実現不可能な理想をふりかざして、社会不安を醸成したゝめに、却つて反動的勢力の擡頭に、口実を与へてしまつたのである。彼等の妄動のために、合理的な労働運動や、正当なプロレタリヤ解放運動までが、オヂヤンになつてしまつた。十年前までは、あんなに盛んであつた改造とか解放とか云ふ言葉が、今ではどこにも聞こえなくなつた。日本の社会改革運動は、合法的な社会民衆党的な主張に依つて、穏健に確実に行はるべきであつたのである。 — 菊池寛「話の屑籠」(昭和10年5月)[17]

文士部隊

1939年、中国大陸で取材中の菊池(右から二人目)。翌年、菊池は西住小次郎の評伝を発表する。

1938年(昭和13年)、内閣情報部は日本文藝家協会会長の寛に作家を動員して従軍(ペン部隊)するよう命令。寛は希望者を募り、吉川英治小島政二郎浜本浩北村小松吉屋信子久米正雄佐藤春夫富沢有為男尾崎士郎滝井孝作長谷川伸土師清二甲賀三郎、関口次郎、丹羽文雄岸田國士湊邦三中谷孝雄、浅野彬、中村武羅夫佐藤惣之助総勢22人で大陸へ渡り、揚子江作戦を視察[18]。翌年は南京、徐州方面を視察。帰国した寛は「事変中は国家から頼まれたことはなんでもやる」と宣言し、「文芸銃後運動」をはじめる。これは作家たちが昼間は全国各地の陸海軍病院に慰問し、夜は講演会を開くというもので、好評を博し、北は樺太、南は台湾まで各地を回った[19]1942年(昭和17年)、日本文学報国会が設立されると議長となり、文芸家協会を解散。翌年、映画会社「大映」の社長に就任[20]、国策映画作りにも奮迅する[21]

公職追放、急死

終戦後の1947年(昭和22年)、GHQから寛に公職追放の指令が下される。日本の「侵略戦争」に文藝春秋が指導的立場をとったというのが理由だった。寛は「戦争になれば国のために全力を尽くすのが国民の務めだ。いったい、僕のどこが悪いのだ。」と憤った[22]。その年の暮れには横光利一死去。翌年1948年(昭和23年)1月、苦難を共にした、元文藝春秋社専務の鈴木氏亨が急逝。気力の衰えた寛は、2月に胃腸障害で寝込む。回復すると3月6日に近親者や主治医を雑司が谷の自宅に集め、全快祝いを行ったが、好物の寿司などを食べたあと、2階へ上がったとたん狭心症を起こし、午後9時15分、急死享年59歳。息子を呼ぶ「英樹、英樹」が最期の言葉だった[23][24][25]。その際、夫人の手を握りしめていたという[26]

告別式は音羽の護国寺で行われた。葬儀委員長は久米正雄。参列者7千人の中には当時首相だった芦田均もいた。家族が発見した寛の遺書が当日公表された。

私は、させる才分なくして、文名を成し、一生を大過なく暮しました。多幸だつたと思ひます。死去に際し、知友及び多年の読者各位にあつくお礼を申します。ただ国家の隆昌を祈るのみ。 — 吉月吉日 菊池寛

注釈

  1. ^ 芥川龍之介賞の第一回は無名作家・石川達三の「蒼眠」『中外商業新報』1935年(昭和10年)8月11日。

出典

  1. ^ 井上 1999, p. 23.
  2. ^ 井上 1999, p. 24.
  3. ^ 井上 1999, p. 26-27.
  4. ^ 井上 1999, p. 28.
  5. ^ 井上 1999, p. 7.
  6. ^ 関口安義反骨の教育家 : 評伝 長崎太郎 II」『都留文科大学研究紀要= 都留文科大学研究紀要』第64巻、都留文科大学、2006年、118-101頁、doi:10.34356/00000185NAID 110007055966 
  7. ^ 東條文規「菊池寛と図書館と佐野文夫」、『図書館という軌跡[1]』ポット出版、2009年、pp.335 - 354(初出は『香川県図書館学会会報』)
  8. ^ 「漱石先生と我等」(「新思潮」漱石先生追慕号、大正6年3月)でその時の様子を好意的に記している。そこで彼も漱石門下と見られることもあるが、「半自叙伝(続)」では「私は昔から激石の作品は嫌いではないまでも、尊敬は出来なかった。同僚の芥川や久米が崇拝するのが、不思議でならなかった。芥川などは、本気であんなに認めていたのか訊いて見たかったくらいである」と述べており、師事していたとは言い難い。
  9. ^ 井上 1999, p. 32-33.
  10. ^ 井上 1999, pp. 38–40.
  11. ^ 井上 1999, pp. 42–43.
  12. ^ 井上 1999, p. 242.
  13. ^ 井上 1999, pp. 52–53.
  14. ^ 谷中斎場で葬儀、霊前で慟哭した菊池寛『東京日日新聞』昭和2年7月28日(『昭和ニュース事典第2巻 昭和元年-昭和3年』本編p5 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  15. ^ 「話の屑籠」(文藝春秋 1937年3月号)。菊池・感想24 1995, pp. 349–350に所収
  16. ^ 林健太郎「解説――時代の体現者・菊池寛」(菊池・感想24 1995, pp. 671–683)
  17. ^ 「話の屑籠」(文藝春秋 1935年5月号)。菊池・感想24 1995, pp. 306–308に所収
  18. ^ 井上 1999, p. 69.
  19. ^ 井上 1999, p. 70.
  20. ^ 井上 1999, p. 247.
  21. ^ 井上 1999, p. 76.
  22. ^ 井上 1999, p. 80.
  23. ^ 井上 1999, pp. 82–84.
  24. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)9頁
  25. ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)114頁
  26. ^ 『20世紀全記録 クロニック』小松左京堺屋太一立花隆企画委員。講談社、1987年9月21日、p.700
  27. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  28. ^ a b c d e 『ひげとちょんまげ』(稲垣浩、毎日新聞社刊)
  29. ^ 木津川計『上方の笑い』 講談社現代新書、1984年 p.24
  30. ^ タモリ「まさか本物を…」いいとも“くちきかん賞”は幻に Sponichi Annex、2014年12月6日
  31. ^ 『昭和モダニズムを牽引した男 菊池寛の文芸・演劇・映画エッセイ集清流出版2009年(平成21年)。
  32. ^ a b c d e f g 「六、永井荷風×菊池寛の章」(悪口本 2019, pp. 155–171)
  33. ^ 菊池寛「文芸当座帖――自分の名前」(文藝春秋 1924年3月号)。悪口本 2019, pp. 158–159に掲載
  34. ^ 菊池寛が一札を入れ、全員一晩で釈放『中外商業新聞』昭和8年11月19日夕刊(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p613-614 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  35. ^ 大御所菊池寛や花形女優ら次々と検挙『東京朝日新聞』昭和9年3月18日夕刊(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p615)
  36. ^ 【あの人も愛した 京ぎをん浜作】菊池寛、志賀直哉らと同じく…谷崎潤一郎も「浜作文人」の1人だった”. zakzak (2020年4月28日). 2021年5月30日閲覧。
  37. ^ 矢崎泰久『口きかん―わが心の菊池寛』(2003年、飛鳥新社)
  38. ^ 『サザエさんうちあけ話』
  39. ^ 「恋文」(杉森 1987, pp. 7–49)
  40. ^ 「京洛」(杉森 1987, pp. 86–111)
  41. ^ 香川菊池寛賞 - 高松市






菊池寛と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「菊池寛」の関連用語

菊池寛のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



菊池寛のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの菊池寛 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS