菊池寛
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栄典
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[27]
家族
両親・兄弟
- 父親・武脩(たけなが)
- 母親・カツ
- 長姉・アイ
- 長兄・武吉
- 次姉・ナミ
- 次兄・良平
- 三兄・三八
- 妹・久仁
妻子
- 妻・包子(かねこ)
- 長女・瑠美子
- 長男・英樹
- 次女・ナナ子
主要作品
高松市菊池寛記念館から『菊池寛全集』(全24巻、1993年-1995年)が、また、武蔵野書房から『菊池寛全集補巻』(全5巻、1999年-2003年)が刊行されており、ほぼすべての作品を比較的容易に鑑賞することが可能である。文春文庫と岩波文庫で諸作品が刊行されている。また、未知谷から『歴史随想』と『剣聖武蔵伝』が刊行されている。
大衆小説・戯曲
- 屋上の狂人
- 父帰る
- 無名作家の日記
- 恩讐の彼方に
- 藤十郎の恋
- 真珠夫人
- 受難華
- 無憂華夫人
- 貞操問答
- 三人兄弟
- 葬式に行かぬ訳
- 下足番
- 形 - 1966年より中学二年生、中学三年生の国語の教科書(光村出版)に採用されている。
- 入れ札
- 慈悲心鳥
- 第二の接吻
- 火華
- 袈裟の良人 - 映画『地獄門』原作。
伝記
少女小説
※「少女倶楽部」連載の長編小説について扱う。
- 心の王冠(1938年1月-1939年12月)
- 珠を争う(1940年1月-12月)
- 輝ける道(1941年1月-1942年3月)
「珠を争う」が、「ふたりの女王」永見七郎作/ 江川みさお絵というタイトルの再話で、雑誌「少女」昭和29年11月号の付録書籍「少女小説名作全集」に収録 「輝ける道」が、「父かえる日まで」永見七郎作/糸賀君子絵というタイトルの再話で、雑誌「少女」昭和30年新年号の付録書籍「少女小説名作全集」に収録
随筆・評論
- 半自叙伝
その他
- フランダースの犬(翻訳)
- 日本競馬読本
- 大衆明治史(1943年)
人物
![]() | この節に雑多な内容が羅列されています。 |
作風
- 人生経験や人生観を創作に生かすことを重視していた。「小説家たらんとする青年に与う」という文章の中で、「二十五歳未満の者、小説を書くべからず」と述べている。
- 『我鬼』のモデルは芥川龍之介、『友と友の間』『神の如く弱し』は久米正雄がモデル。
名について
- 「寛」は旧字では「寬」と最後に点を打つが、寛はこの点を省いていた。菊池の墓碑銘を揮毫した川端康成も新字の「寛」を用いた。
- 名の「寛」は「ひろし」と読めば本名、「カン」と読めば筆名だったが、本人はどちらで呼ばれても特に気にせずに返答していた。ただし「菊池」を誤って「菊地」と書かれるとすこぶる機嫌を損ねたという。
- 大映社長就任時の宴席で、稲垣浩は菊池から開口一番「君の名はコウかね、ヒロシかね」と訊かれ、「ヒロシ」だと答えたところ、「ぼくもホントはヒロシなんだけどネ、いつの間にかカンになってしまった。面白いものだね。カンと呼ばれているうちに自分でもカンの方がいいと思うようになったよ」と話し、その屈託ない話しぶりに稲垣も「とても話しやすかった」と述懐している[28]。
「くちきかん」
「きくちかん」をアナグラムにすると「くちきかん」(口利かん)となる。このアナグラムは菊池の生前から、彼の交友の内外で同時多発的に話された記録がある。
- 菊池が麻雀で負けると、ムッとして黙り込んでしまい、対戦者が「くちきかん」と陰口を言ったという。
- 木津川計によれば、菊池没時、大阪では巷で「ああ、ついにクチキカン」と不謹慎な哀悼を捧げたという[29]。
- 矢崎泰久の評伝に『口きかん わが心の菊池寛』(2003年、飛鳥新社)がある。
- タレントのタモリが第62回菊池寛賞を受賞した際、授賞式の席上で、出演するテレビ番組のゲストについて「年間で一番無口だった人に“くちきかん賞”をあげようとしたこともあった」と語った[30]。
パトロンとして
- 馬海松を可愛がり、『文藝春秋』の創刊の際、編集部に入れ、後も交遊を続けた。
- 文藝春秋社の映画雑誌の編集をしていた古川郁郎という青年が、余興に演じる芸が上手いので喜劇役者になるように勧めた。この青年は後に喜劇俳優・古川ロッパとして成功した[31]。
- 長谷川町子の自伝『サザエさんうちあけ話』によると、長谷川家が上京後に生活費に窮した際、知人の紹介で長谷川の姉の絵を見た菊池は、長谷川の姉を自作の挿絵画家に採用した。その後、長谷川の母が長谷川の姉を通じて、長谷川の妹(当時東京女子大学在学)の作文を見せると、菊池は「(大学を)やめさせなさい。ボクが育ててあげる」と答え、妹は大学を退学して菊池家に日参し、古典文学などの講義を受けた。のちに妹は文藝春秋に入社するものの、肋膜炎を患い退社した。
- 1977年(昭和52年)9月の座談会「戦争と人と文学」(平凡社『太陽』第174号)における巖谷大四や井伏鱒二の発言によると、菊池は着衣のあらゆるポケットにクシャクシャの紙幣を入れており、貧乏な文士に金を無心されるとそれを無造作に出して、1円当たる人もいれば5円当たる人もいたという。菊池と旅先で出会った井伏と尾崎士郎は、「金ならあります」と言っているのに「金がないんだろう、金やろう」と紙幣を押しつけられそうになった。
永井荷風から嫌われる
永井荷風は人の好悪の激しい作家だが、とりわけ菊池寛のことを非常に嫌悪し、自身が38歳から79歳の死の前日まで42年間にわたり付けていた日記『断腸亭日乗』の中には、菊池への罵詈雑言の叙述がところどころに見受けられる[32]。荷風は菊池の噂を聞くと必ずといっていいほど罵倒の言葉を綴っては、出版界のほか社会の世相悪化の原因までも菊池のせいにして書き殴っていた[32]。
荷風が菊池を嫌うようになった原因については、はっきりしたことは判明してはいないが、菊池が自身の先祖の菊池五山の名を、荷風から悉く菊地五山と書き間違えられた不快感を1924年(大正13年)3月の『文藝春秋』誌上で表明して以降、荷風の日記上に菊池への罵詈雑言が始まっているため、それがきっかけでないかと言われている[32]。
菊池はその随筆「自分の名前」の中で、常に博識を自認し現代人の無学無文を嘲っている荷風先生にして「肝心の人の姓名を誤書するに至つては、沙汰の限り」と述べ、「難しさうな詩句などを引用するのも、非常に結構だが、それよりも前に、人の名前位は、正確に書いてもいいだらう」と忠言していた[33][32]。
荷風はそれ以降、菊池が面会を希望しても断って「交を訂すべき人物にあらず」(交流するような人物ではない)と記したり[32]、また別の日の日記では、他の雑誌社の人物が荷風に寄稿を依頼する際しきりに「礼金」のことを話して荷風が固持しても机の上に金を置いていったことを、文人に向ってあたかも材木屋に材木を注文するような「悪風」だと書き連ねながら、その編集者は「敢て咎むべきにはあらず」、「
大映社長として
- 大映社長就任の挨拶で菊池は「ぼくは社長としての値打ちは何もないが、製作する全作品のシナリオを読んでくれればいいということなので、それならぼくにもできそうだと思ったから社長を引き受けた」と話し、稲垣浩らはその淡々とした話しぶりや飾らない様子に、大きな拍手を送ったという[28]。
- なお、その際、卓上にハンカチを忘れ、一同の眼が集まったが、その白いハンカチは生き物のように菊池の後を追って動き、壇上から滑り落ちた。事務の者が慌てて走り寄って拾い上げようとすると、菊池はそれに気づき、服から垂れた糸を引っ張って手品のようにハンカチを手元に引き上げた。短時間だがそのユーモラスな光景に対し、会場の聴衆はどっと好感の笑いを巻き起こしたが、菊池はニタリともせずに無造作にハンカチをポケットにねじ込み静かに席に戻って行った。これは、菊池がよくハンカチを落としたり忘れたりし、戦時下で衣料品が切符制だった事情から新調が困難だったので、夫人が紐を付けてポケットに縫い付けたものであった[28]。
- 稲垣が『お馬三十三万石』というシナリオを書いたとき、競馬愛好家だった(後述)菊池は「馬の話だ」ということでとくに念入りに読んで、いろいろと意見を出し、「君これは鍋島藩になってるけどネ、佐賀は馬産地ではないから駄目だね、福島か南部に改めてはどうだ」と言った。稲垣が「阿蘭陀人が出ますからどうしても九州でないと困るのですが」と答えると、「それなら島津がいいだろう」、「でも(鍋島の)三十三万石という題名がいいと思うのですが」とさらに答えると菊池は「なに、島津なら七十七万石だから、そのほうがずっと大きくていいよキミ」と返した。稲垣は「やはり役者が何枚かうわてだった」と語っている[28]。
趣味
とにかく勝つ人は強い人である、多く勝つ人は結局上手な人、強い人と云はなければならないだらう。しかし、一局一局の勝負となると、強い人必ず勝つとは云へない。定牌を覚えたばかりの素人に負けるかも知れない。そこが麻雀の面白みであらう。しかし、勝敗の数は別として、その一手一手について最善なる打牌を行う人は結局名手と云はなければならない、公算を基礎とし、最もプロバビリティの多い道を撰んで定牌に達し得る人は名手上手と云へよう、しかしさうした公算に九分まで、準據ししかも最後の一部に於て運気を洞算し、公算を無視し、大役を成就するところは麻雀道の玄妙が存在してゐるのかも知れない。
最善の技術には、努力次第で誰でも達し得る。それ以上の勝敗は、その人の性格、心術、覚悟、度胸に依ることが多いだらう。あらゆるゲーム、スポーツ、がさうであるが如く、麻雀、も技術より出で、究極するところは、人格全体の競技になると思ふ。そこに、麻雀道が単なるゲームに非る天地が開けると思ふ。 — 菊池寛、『麻雀讃』
- 1933年(昭和8年)11月、文士や出版関係者らが麻雀賭博容疑で摘発された際には、菊池が身元引受人になるべく警視庁の課長宛に一筆を入れることもあった[34]が、菊池自身も翌1934年(昭和9年)3月に麻雀賭博容疑で検挙されている[35]。
- 将棋については、「人生は一局の将棋なり 指し直す能わず」というフレーズを作ったといわれる。
- 大映社内において、将棋好きの社長・菊池の影響で将棋が流行し始め、重役連も急に将棋の勉強を始めなければならなくなった。稲垣浩は「ヘボ以下」を自認していたが、重役連とはいい勝負だった。菊池はそんなヘボ将棋でも熱心にのぞき込んで観戦し、「シロウト将棋はあとさきも考えないから、見ていてとても面白いネ」と言ってタバコの灰をポロポロ膝に落とし、愉快そうに目を細めていたという[28]。
- 秘書矢崎寧之の息子である矢崎泰久少年と将棋を指した時、泰久に木村義雄14世名人が助言をしたため菊池寛が負けた。怒った菊池は名人のいない所でもう一局指したが、泰久が指し手を記憶していたので返り討ちにあった[37]。
その他
- 喫煙者であったが、灰皿を使う習慣がなかったらしく、畳や椅子の肘掛けで揉み消していたため、家中焼け焦げだらけであったという。当然ながら灰をまき散らすことにも頓着しなかった。
- 長谷川町子は菊池の書生だった自身の妹から菊池は「時には帯を引きずりながら出てくる」「時計を二つもはめていることがある」「汗かきで汗疹をかくと胸元がはだけ、厚い札束が顔を覗かせている」という3つの話だけを聞いたという[38]。
- 両性愛者の傾向があった。
- 旧制中学時代に4級下の下級生の渋谷彰に同性愛的思慕を持っていた。この渋谷に宛てた愛の手紙が多数現存する[39]。2人の文通はその後も続き、菊池が京大卒業後も文通はあるが、この頃は渋谷へ翻訳の仕事を与えようとするなど通常の手紙になってきている[40]。
- また、正妻以外に多数の愛人を持ち、その内の1人に小森和子がいた。小森はあまりに易々と菊池に体を許そうとしため、菊池から「女性的な慎みがない」と非難されたという。
注釈
- ^ 芥川龍之介賞の第一回は無名作家・石川達三の「蒼眠」『中外商業新報』1935年(昭和10年)8月11日。
出典
- ^ 井上 1999, p. 23.
- ^ 井上 1999, p. 24.
- ^ 井上 1999, p. 26-27.
- ^ 井上 1999, p. 28.
- ^ 井上 1999, p. 7.
- ^ 関口安義「反骨の教育家 : 評伝 長崎太郎 II」『都留文科大学研究紀要= 都留文科大学研究紀要』第64巻、都留文科大学、2006年、118-101頁、doi:10.34356/00000185、NAID 110007055966。
- ^ 東條文規「菊池寛と図書館と佐野文夫」、『図書館という軌跡[1]』ポット出版、2009年、pp.335 - 354(初出は『香川県図書館学会会報』)
- ^ 「漱石先生と我等」(「新思潮」漱石先生追慕号、大正6年3月)でその時の様子を好意的に記している。そこで彼も漱石門下と見られることもあるが、「半自叙伝(続)」では「私は昔から激石の作品は嫌いではないまでも、尊敬は出来なかった。同僚の芥川や久米が崇拝するのが、不思議でならなかった。芥川などは、本気であんなに認めていたのか訊いて見たかったくらいである」と述べており、師事していたとは言い難い。
- ^ 井上 1999, p. 32-33.
- ^ 井上 1999, pp. 38–40.
- ^ 井上 1999, pp. 42–43.
- ^ 井上 1999, p. 242.
- ^ 井上 1999, pp. 52–53.
- ^ 谷中斎場で葬儀、霊前で慟哭した菊池寛『東京日日新聞』昭和2年7月28日(『昭和ニュース事典第2巻 昭和元年-昭和3年』本編p5 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 「話の屑籠」(文藝春秋 1937年3月号)。菊池・感想24 1995, pp. 349–350に所収
- ^ 林健太郎「解説――時代の体現者・菊池寛」(菊池・感想24 1995, pp. 671–683)
- ^ 「話の屑籠」(文藝春秋 1935年5月号)。菊池・感想24 1995, pp. 306–308に所収
- ^ 井上 1999, p. 69.
- ^ 井上 1999, p. 70.
- ^ 井上 1999, p. 247.
- ^ 井上 1999, p. 76.
- ^ 井上 1999, p. 80.
- ^ 井上 1999, pp. 82–84.
- ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)9頁
- ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)114頁
- ^ 『20世紀全記録 クロニック』小松左京、堺屋太一、立花隆企画委員。講談社、1987年9月21日、p.700
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
- ^ a b c d e 『ひげとちょんまげ』(稲垣浩、毎日新聞社刊)
- ^ 木津川計『上方の笑い』 講談社現代新書、1984年 p.24
- ^ タモリ「まさか本物を…」いいとも“くちきかん賞”は幻に Sponichi Annex、2014年12月6日
- ^ 『昭和モダニズムを牽引した男 菊池寛の文芸・演劇・映画エッセイ集』清流出版、2009年(平成21年)。
- ^ a b c d e f g 「六、永井荷風×菊池寛の章」(悪口本 2019, pp. 155–171)
- ^ 菊池寛「文芸当座帖――自分の名前」(文藝春秋 1924年3月号)。悪口本 2019, pp. 158–159に掲載
- ^ 菊池寛が一札を入れ、全員一晩で釈放『中外商業新聞』昭和8年11月19日夕刊(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p613-614 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 大御所菊池寛や花形女優ら次々と検挙『東京朝日新聞』昭和9年3月18日夕刊(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p615)
- ^ “【あの人も愛した 京ぎをん浜作】菊池寛、志賀直哉らと同じく…谷崎潤一郎も「浜作文人」の1人だった”. zakzak (2020年4月28日). 2021年5月30日閲覧。
- ^ 矢崎泰久『口きかん―わが心の菊池寛』(2003年、飛鳥新社)
- ^ 『サザエさんうちあけ話』
- ^ 「恋文」(杉森 1987, pp. 7–49)
- ^ 「京洛」(杉森 1987, pp. 86–111)
- ^ 香川菊池寛賞 - 高松市
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