汪兆銘政権 あゆみ

汪兆銘政権

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/02 03:17 UTC 版)

あゆみ

日華基本条約

日華基本条約の内容を広報するリーフレット(中国語)

日中戦争においては、盧溝橋事件以来、船津和平工作、トラウトマン工作、宇垣工作など、和平が幾度も試みられてきたが、いずれも失敗に帰し、汪兆銘工作は上述のように新南京国民政府の成立をもたらしたが、蔣介石の重慶政府は日本に対する徹底抗戦を唱えており、重慶との和平は依然として日中戦争打開のためには必要とされるべき課題であり、汪兆銘工作とともに桐工作が並行して進められたが、これも失敗に終わった[24]。1940年7月、第2次近衛内閣が成立し、松岡洋右が外務大臣に就任した。松岡もまた銭永銘・周作民工作を進めたが、重慶側と日本側とでは和平案に折り合いがつかなかった。松岡は汪政権を承認する方針に転じた[24]

汪兆銘政権は、1940年11月30日、南京において日華基本条約(日本国中華民国基本関係に関する条約)と日満華共同宣言に調印した[20]。日本が南京政府を正式に承認したのは、「還都式」より8か月を経過したこのときであった[22]。同時に汪兆銘は、南京国民政府の正式な「主席」に就任したが、これは日華基本条約調印の資格として主席の肩書が必要だったからであった[25]

日華基本条約は、汪兆銘と日本から特使として派遣された阿部信行元首相の間で調印されたもので、汪の国民政府と日本との間に「東亜新秩序」に基づく互恵関係を結ぶことを謳い、第1条に永久の善隣友好、第3条に共同防共、第6条に共同資源開発・経済提携などを定め、汪政権側が日本軍の蒙疆(蒙古聯合自治政府)への駐留を認めた。また、日清戦争後の1896年に結ばれた日清通商航海条約が正式に破棄された。

日満華共同宣言は、汪、阿部に満洲国外相の臧式毅が加わった三者により調印された。この三国は互いに国家承認をおこない、善隣友好・共同防共・経済提携を柱とする互恵関係を定め、特に経済面では「日満華経済ブロック」の形成が目指された。

新政権は誕生したものの、結局は汪が当初意図したような「重慶政府との和平」は実現せず、蔣政権と日本の戦争状態はつづいた[25]。南京政府での汪兆銘の演説中の写真には、必ずといってよいほど、背景に孫文の顔写真が掲げられている[23]。汪は常に自らが孫文の意思を引き継ぐ正統な政府であることを訴えたのである。

還都1周年が過ぎた民国30年(1941年)5月、南京政府で汪兆銘の日本公式訪問が立案された[25]6月16日、上海から神戸港に上陸し東京駅に着いた汪一行を、日本国民は熱烈に歓迎した[25]。汪兆銘は元首待遇として昭和天皇に拝謁し、天皇から日中間の「真の提携」を願うとの言葉をかけられている[25]。汪兆銘は、近衛文麿首相、松岡洋右外相、杉山元参謀総長、永野修身軍令部総長、東条英機陸相らと面談し、6月19日にはレセプションが開かれ、6月23日には近衛首相とで共同宣言を発表した[25]。この訪日を機に、日本から国民政府に対し3億円の武器借款が供与され、中国中部における押収家屋と軍管理工場の返還がなされた[25]

太平洋戦争と汪政権

アメリカ合衆国との対立を深めていた日本は、1940年11月、野村吉三郎を駐米大使として和平交渉にあたらせたが事態は好転しなかった[26]。民間においても日米和平が模索され、アメリカの満洲国承認を前提に、日本軍が中国から撤退し、それを前提に汪兆銘・蔣介石両政権の合流をはかるという案が出され、近衛文麿も陸軍もこの案に賛成したが、アメリカ政府は同意しなかった[26]

汪兆銘の来訪を歓迎する満洲国の人々

また、蔣介石政権とのしがらみがあった日本の同盟国ドイツが承認したのは1941年7月になってからだった[20][25]。また、この年の秋、汪兆銘は満洲国を訪れ、康徳帝(愛新覚羅溥儀)や張景恵国務総理と会見した[25]。こうして汪兆銘の南京国民政府は、第二次世界大戦下では外交上日独伊三国同盟の側に立った。

1941年8月28日、日本政府は近衛文麿首相とフランクリン・ルーズベルト大統領との会談をアメリカに申し入れたものの実現しなかった[25]。事情を知らない汪兆銘は日米会談が実現した場合を想定して、近衛首相あてに書簡を送り、アメリカは日華基本条約の修正を求めてくると思われるが、もし安易に修正に応じれば親米反日の傾向の強い中国民衆はいっそうその傾向を強め、結果としてアジアを不利を招くこと、また、修正の成功をアメリカが独自に重慶に知らせれば、重慶政府は自らの成果であると喧伝し、民衆も惑わされ、汪政権が信用を失うことにつながりかねないとして、もし条約の修正が不可避の場合は事前に汪政権に相談してほしい旨を伝えた[25]

軍を閲兵する汪兆銘

1941年12月8日、日本は真珠湾攻撃を敢行し、英米蘭に対して宣戦を布告して新たな戦争が始まった[27]。事前に日本の開戦を知らされていなかった汪は驚き、「和平」の実現がいよいよ遠くなってしまったことを悟ったと思われる[25]。汪自身は日本の国力では英米蘭に対抗できないと判断していたが、12月8日付で「大東亜戦争に関する声明」を発した[25]。汪はここで、英米帝国主義を批判し、「南京国民政府としては日本とこれまで結んだ条約を重んじ、アジア新秩序の建設という共同目的達成のために日本と苦楽をともにすべきこと、かつての辛亥革命の精神にもとづいて孫文大亜細亜主義を遂行し、和平、反共、建国の使命を全うすべきこと」を民衆に訴えた[25]

日本と英米蘭開戦の日、蔣介石率いる重慶政府は日本・ドイツ・イタリアに対し、宣戦布告を行った[25][28]。汪兆銘は日本の影佐禎昭に対し、南京政府は日本側で参戦する意思があると伝えたが、影佐は満洲国が日ソ中立条約を考慮して参戦していないにもかかわらず南京政府が開戦することは、必ずしも合理的とはいえないとして、むしろ汪の熱意をしずめている[25]

1942年に入り、特命全権大使として南京に赴いた重光葵は、1月12日に汪兆銘に対して国書を奉呈し、翌日より数度にわたって南京の汪公館にて汪と重光の会談がなされた[25][29]。汪の発言は、それまでの思慮深い彼からするときわめて大胆であり、「大東亜戦争が勃発したことで、ある種の新鮮な感覚が生まれた」「新時代を画する大展開であり喜ばしい」「中国の立場としては、当然、日本の勝利を願いつつも、政府としてどのように協力すればいいのか苦慮している」、さらに「重慶に反省を促し、もし反省しないなら彼らを壊滅させるよう努力する」というものであった[25]。そして、「当初は蔣介石打倒などということは毛頭考えなかったが、重慶政府が米英と結んでビルマにまで出兵するにいたった以上、和平工作は放棄する以外になく、もし重慶が希望するように日本が敗れるならば、中国は滅亡し、東アジア全体が欧米の植民地に転落してしまうだろう」と述べた[25]。彼としては、孫文における「三民主義」に再解釈をほどこしてでも、孫文のもう一方の主張である「大亜細亜主義」(汪兆銘の言葉では「大亞洲主義」)を前面に掲げ、白人帝国主義に対し抵抗姿勢を示すと同時に、第二次世界大戦が終結する前に日中戦争を解決することが肝要だと考えていたのである[25]3月25日、日本政府は広東省におけるイギリス租界を汪兆銘政権に移管した[30]。6月1日には、汪兆銘政権の特使として褚民誼が来日し、昭和天皇に拝謁している[31]

7月7日、日本との間で日泰攻守同盟条約を結んでいたタイが汪兆銘の南京国民政府を承認した[28]。また、このころ、南京政府では通貨制度が混乱し、危機に陥っていた[32]日本銀行7月28日、その救援のため、周仏海の中央儲備銀行に対して1億円の借款供与契約を結んでいる[32]

1942年9月1日、日本政府は閣議で「大東亜省」の設置を決定したが、東郷茂徳外相は二元外交の原因になりかねないとしてこれを批判し、辞職した[33]。一方、9月22日平沼騏一郎有田八郎永井柳太郎が日本政府の特使として南京を訪れている[6]。汪兆銘は、重慶政府との和平工作はすでに限界に達しており、南京政府の和平地域に所在する住民ですら、和平にも抗日にも倦み疲れている実情を説明し、南京政府を強化させる手立てとして、

  1. 南京政府の管掌下にある地方組織に対し、日本側から頭越しに直接指示するなどして治安を妨害しないこと。まして、所属官吏の任免を日本がつかさどるのは論外であり、必ず大使館を通じて南京政府と相談すること。
  2. 中国にとっても、現下の日本にとっても中国の農業工業商業の発達は急務であり、その発達を阻害するような規制や束縛は、日本政府の文書によって撤廃されてしかるべきこと。

の2点を求めた[6]。のちに傀儡政権として断罪された汪兆銘政権であったが、日本占領地域に居住する中国民衆の暮らしには最大限の気遣いを示していたのである[6]

対英米参戦と主権の回復・大東亜会議

東條英機と汪兆銘(1942年12月)

1942年11月1日、日本では大東亜省が正式に発足した[6][34]12月25日、訪日中だった汪兆銘は総理官邸で東条英機と会談し、日本占領下の上海や南京でいかに汪政権が民衆から信頼されにくいかを訴え、日本側の善処を求めた[6]

結局、汪政権も枢軸国側として参戦することとなった[6][35]。民国32年(1943年1月9日、汪兆銘を首班とする南京国民政府は米英に対し宣戦布告した[6][35]。同時に日本との間に、日本が中国で保持していた専管租界の返還と治外法権の撤廃に関する協定を締結した[36][37]。日本側は両国の提携拡大によって汪兆銘政権による中国の「物心両面の総動員」が日本の戦力整備に寄与することを期待したのである[36]。この件について、翌日の『朝日新聞』は「中国の実質的な自主独立が達成された」と報じた[36]

1943年1月11日、米英もその直後、蔣介石政権との間で不平等条約による特権を放棄する新条約を結んだ[6][35][38]。イタリア政府は、1月14日に自国が保持していた専管租界の返還と治外法権の撤廃を声明し[37]フランスヴィシー政府2月23日に自国が保持していた4ヵ所の専管租界の返還と治外法権の撤廃を声明した[37]。これは、日本政府が南京駐在のヴィシー政府代表に連絡して上海の共同租界の行政権を南京政府に還付させることに成功したものであった[6]。3月12日、東条首相兼外相が南京国民政府を訪問し、14日、日華両国政府は「日本専管租界(杭州蘇州漢口沙市天津福州厦門、重慶の8市)の返還及び治外法権撤廃等に関する細目取り決め」を調印した[39]。さらに、日本と汪兆銘政権は、3月22日には北平公使館区域の行政権の返還、3月27日には厦門・鼓浪嶼共同租界行政権の返還に関する取り決めに調印した[39]。日本政府が汪政権に対し、上海共同租界を返還したのは8月1日のことであった[40]。こうして、辛亥革命以来、中国の開放に不可欠な要件とされた不平等条約の中核である「治外法権の撤廃」と「租界の回収」が実現したのであった[6][35][38]。4月には、日本政府は南京国民政府の主権を尊重して中国大陸での軍票の新規発行を廃止している[39]

和平への道を断念した汪兆銘は一方、2月2日付の訓令で、青天白日満地旗の上につけていた「和平 反共 建国」の三角標識を撤去するよう指示している[6]。これに先立つ1月30日には、日本の大本営政府連絡会議が三角旗の除去に同意しており、これを受けてのことであった[41]

3月、延安に拠点のあった中国共産党が汪兆銘政権と合作すべく秘密裏に接触してきている[6]毛沢東の指示を受けた劉少奇が共産党員の馮竜を使者に任じ、上海において周仏海に面会させたものであった[6]。これは、馮竜の叔父の邵式軍中国語版が周仏海の中央儲備銀行の監事を務めていた一方、共産党に資金を流すなど周と共産党がひそかにつながっていたところから、邵式軍が手配したものとみられるが、合作そのものは実現しなかった[6]

9月9日、汪兆銘政権では特務機関の李士群が暗殺される事件が起こっている[6]9月22日には汪が訪日して昭和天皇に拝謁し、東条首相と面談した[6]。汪はこの時、日本政府に対しては重慶政治工作に関する日本側の意向を打診している[42][43]

大東亜会議に参加した汪兆銘(左から3人目、1943年)

占領下の国の結びつきを強めた日本は、この年の8月にイギリス領だったビルマ自由インド仮政府、10月にアメリカ領だったフィリピンをそれぞれ承認し、同時に各国と同盟条約を結んだ[6][44][45]。汪兆銘政権とは10月30日に日華同盟条約を結び、付属議定書では戦争終結後の日本軍撤退と北清事変で得た駐兵権放棄と戦争状態終了後の撤兵を約束した[6][44][45][46][47]

1943年11月5日から6日まで、東京大東亜会議が開かれた[6][44][45][48]。汪兆銘は南京国民政府代表(ただし、肩書きは行政院長)としてタイやビルマ、フィリピン、満洲国、自由インドなど、他のアジア諸国の首脳とともに出席し、大東亜共同宣言を採択した[6][44][45]。上に述べた各国の独立承認や同盟条約の締結は、大東亜宣言の前提となるものであった[6][44]

しかし、この年の12月、汪兆銘は歩行困難な状態となり、12月19日には狙撃事件の際に体内に残った銃弾の除去手術を受けた[42]

汪兆銘の死とその後の南京国民政府

民国33年(1944年)に入ると、汪兆銘は両足で立っているのもままならない状態となり、まもなく下半身不随の重体となった[49]3月3日には渡日して名古屋帝国大学医学部附属病院に入院した[49]。それに前後して、南京国民政府は政権ナンバー2の陳公博とナンバー3の周仏海の二頭体制となっていった[19]。陳は主として政治を、周はおもに軍事を担当した[19]

陳公博

一方、汪は身体の激痛に耐えながら日本での闘病生活を続けたが、11月10日、そのまま名古屋にて客死した[49]。汪の後任の南京国民政府主席には汪の渡日以来主席代理を務めていた陳公博が就任した[49]。陳は行政院長・軍事委員会委員長も兼ねたが、彼もまた対外的に必要のあるときだけ「主席」を名乗り、それ以外は「行政院長」の肩書きを用いた[49]。陳公博が汪兆銘の後継者となったのは、汪兆銘からの信頼厚く、公館派・実力派双方の派閥から自由な立場にあったからであり、周囲からもそれは順当だと思われていたのであるが、陳自身は「日本を友邦と思ったことは一度もない」と語っているように、必ずしも親日家ではなかった[19]。彼が重慶から南京の汪のもとに駆けつけたのは、2人が革命家だった時代からの友情にもとづくものであった[19][49]

汪の死去後は、陳公博と周仏海は、南京国民政府が反共作戦をどう進めていくかについて、また、重慶政権との和平をどう進めていくかについて、路線の対立が目立つようになった[19]。陳公博は重慶政府に対して、いわば「反共による再統合」を目指した[19]。しかし、陳による反共作戦の実施提案は、陳が軍事に対する実際の権限を有しないことから蔣政権からは交渉相手としては相手にされなかった[19]。それに対し、周仏海の方はいわば「再統合による反共」を目指した[19]。しかし、軍権を握る周仏海は反共作戦よりも蔣介石軍との再統合を優先したことにより、想定よりも早く訪れた日本の敗戦によって蔣介石軍への投降というかたちを余儀なくされたのであった[19]

こうしたなか、1945年の3月から4月にかけて、かつて汪政権の要人だった繆斌が蔣介石の特使であると称して日本政府に和平を持ちかけるという出来事(繆斌工作)が起こっているが、その真相についてはいまだに謎が多く、また、日本側の反対で工作は失敗に終わっている[50]

南京国民政府は、日本の敗色が濃くなるとともに政権の求心力もまた損なわれ、ポツダム宣言受諾が公表された翌日の1945年8月16日に解散消滅した[49]。国民政府の国軍であった「和平建国軍」も雲散霧消し、日本敗戦後も南京の治安はしばらくは日本軍によって保たれた[19]9月2日、日本は米戦艦ミズーリ号にて降伏文書に調印、9月9日には南京で連合国主催の調印式が行われ、支那派遣軍総司令官岡村寧次大将が中華民国陸軍総司令何応欽を前に降伏文書に調印した[51][52]1946年1月15日、国民党第七四軍は汪の墓を被覆したコンクリートの外壁を爆破して汪の棺を取り出し、遺灰を原野に廃棄した[49]

日本占領下で治安維持にあたっていた南京国民政府の要人は、その多くが蔣介石によって叛逆罪として処刑された[53]。1946年には繆斌が5月21日に、陳公博が6月3日に、褚民誼が8月23日に、それぞれ銃殺刑に処せられた[42]。周仏海は終身刑に処せられたものの、生命は助けられた[19]。汪政権のなかの一派は、姓名を変えて共産軍へと走った[53]。汪兆銘の妻、陳璧君は無期懲役刑に処せられ、蘇州の監獄に収監され、のちに獄中死している[54]







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