汪兆銘政権
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統治原理
三民主義
孫文が掲げて中国国民党の党是となった三民主義は、孫文自身もかかわった国共合作(第一次)を経たのち、そこに帝国主義批判を内包していたために、日中戦争当時の一般の日本国民には「反日イデオロギー」のようにみられており、のみならず、西安事件後は第二次国共合作によって抗日戦争を戦おうとする蔣介石政権側も三民主義を「反日イデオロギー」ととらえ、なおかつ、自らの政権の思想的基盤としていた[55]。そこで、孫文の法統を継ぐ直系の後継者を自認し、それによって新政府の正統性の確立をめざす汪兆銘は、提携相手である日本人の三民主義にかかわる先入観を打破するとともに蔣政権側の三民主義解釈とも対決しなければならなかった[55]。1939年11月23日、汪兆銘は日本軍宣伝主任幕僚会議での演説のなかで、重慶政府の「抗戦建国」に対して「和平建国」を掲げ、そのうえで、三民主義とは「救国を目的とし救国の立場から出発した」ものであって究極的には「救国主義」にほかならないことを力説し、汪独自の三民主義解釈を示した[55]。
1924年11月28日、孫文が神戸の高等女学校で「大亜細亜主義講演」をおこなった時期は、第一次国共合作を開始した直後であり、この時点での三民主義は確かに「反帝国主義」の意味を含み、日・中・ソの提携を提唱し、当時の覇権主義的な日本の姿勢を批判する内容を含んでいた[55][注釈 5]。しかし、このときの「反日」は直接には三民主義によるものではなく、当時の「連ソ」「容共」「扶助工農」の三大政策によるもののはずであり、汪兆銘派が今や容共政策を放棄して揺らぐことなく、また、日本帝国同様「反共」の標語を採用して外交方針が日中間で一致している以上、三民主義は反日のイデオロギーたりえない、他方、蔣介石政権は依然として容共政策を採用しているので、その三民主義は反日イデオロギーを内包するものになるとの説明をおこなった[55]。汪兆銘は、孫文著『三民主義』「民族主義第一講」冒頭の定義を示し、自身の政権を「真正の三民主義」に基づく正統政権であると主張したのである[55]。
大亞洲主義
汪兆銘は、三民主義が救国主義である以上、それをアジア全体に適用するならば「大亞洲主義」の主張となることを表明し、自身の「大亞洲主義」はアジアを支配する白色人種をアジアの地から駆逐して「アジア人のアジア」を実現することにほかならず、いわば「アジア版の三民主義」なのであると説明した[55]。その場合、日本がアジアの指導者として、中国人と連帯して白人と戦うことを望むのであれば、中国に対する優越感情や蔑視感情を一切捨てて、対等の立場から中国に協力する意思を示さなければならないと力説し、その立場から日本は中国との不平等条約をみずから率先して廃棄すべきことを繰り返し説いていった[55]。中国人の反日感情の強い現状において、日本がそれを実行することによって初めて日中の真の和平は実現すると主張したのである。その際、汪兆銘は孫文著『中国存亡の問題』における「中国無ければ日本無く、日本無ければ中国無し」の一説を引用し、これが孫文の生涯の信念だったと強調している[55]。そしてまた、汪兆銘の「大亞洲主義」は、日本の掲げる「大東亜共栄圏」の思想に連なるものだったのである[55]。
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