汪兆銘政権 名称・政体

汪兆銘政権

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/02 03:17 UTC 版)

名称・政体

正式な国号は中華民国: 中華民國)で、その政府を中華民国国民政府: 中華民國國民政府)と称する。

重慶にあった蔣介石が率いる国民政府と国号・政府名称が同じであったため、中華圏の学会では汪精衛国民政府(おうせいえいこくみんせいふ)[注釈 1]と呼称することが多い[注釈 2]。また、汪兆銘が樹立した政府の正統性を否定する観点(後述)から汪精衛政権(おうせいえいせいけん)[注釈 3]偽国民政府(ぎこくみんせいふ)[2]、汪偽国民政府[3]等の呼称も存在する。

日本では、南京が首都だったことに因んで南京国民政府(なんきんこくみんせいふ)という通称が多く使われた。日本の降伏後は、汪兆銘政権との呼称が一般的である[4]

国旗・国歌・記念日

1939年5月、日本を訪問した汪兆銘は、国旗として青天白日満地紅旗を採用することを主張したが、日本陸軍の板垣征四郎がそれに難色を示したため、青天白日満地紅旗に「和平 反共 建国」のスローガンを書き入れた黄色の三角旗(瓢帯)を加えて和平旗とした[5]1943年1月の汪政権の対米英参戦後の2月5日、汪の指示で黄色の瓢帯は除去された[6]

国歌中国国民党党歌(中華民国国歌、通称「三民主義」)をそのまま使用し、記念日国恥記念日中国語版を除けば、従前の国民政府が制定したものをそのまま踏襲した[7]

前史

日中戦争勃発

民国26年 (昭和12年、1937年)7月、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争(支那事変)が始まった。対日徹底抗戦を説く蔣介石に対し、汪兆銘(汪精衛)は「抗戦」にともなう民衆の被害と中国の国力の低迷に心を痛め、「反共親日」の立場を示し、和平グループの中心的存在となった[8][9]。日本は、つぎつぎに大軍を投入する一方、外相宇垣一成イギリスの仲介による和平の途を模索していた[9][10]。しかし、宇垣工作日本陸軍の出先や陸軍内部の革新派統制派の前身)からの反対を受けて頓挫した[9][10]

11月20日、国民政府は南京から四川省重慶への遷都を通告し、一部の部署は湖北省武漢に移転が図られた。12月13日南京戦の結果日本軍は南京を占領した[9][注釈 4]。翌14日には、日本軍の指導で北京王克敏を行政委員長とする中華民国臨時政府が成立した[9]

1938年1月のトラウトマン工作の失敗を受けた第1次近衛内閣は、尾崎秀実による工作や軍部の強硬論の影響もあって、同1月16日、「今後は蔣介石の国民政府を交渉の相手にしない」という趣旨の第一次近衛声明を発表した[9][11][12]。日中戦争は、南京占領後、徐州作戦武漢作戦広東作戦を経て泥沼化していった[9][11]

日本占領下の対日協力政権

民国27年(1938年)3月から4月にかけて湖北省漢口で開かれた国民党臨時全国代表大会では、はじめて中国国民党に総裁制が採用されることとなり、蔣介石が総裁、汪兆銘が副総裁に就任して「徹底抗日」が宣言された[9]。すでに党の大勢は「連共抗日」に傾いており、汪兆銘としても副総裁として抗日宣言から外れるわけにはいかなかったのである[9]。一方、3月28日には南京に梁鴻志を行政委員長とする親日政権、中華民国維新政府が成立している[9]

こうしたなか、この頃から日中両国の和平派が水面下での交渉を重ねるようになり、この動きはやがて、中国側和平派の中心人物である汪兆銘をパートナーに担ぎ出して「和平」を図ろうとする、いわゆる「汪兆銘工作」へと発展した[8][9][10][13]

汪兆銘工作と汪の重慶脱出

汪兆銘
周仏海

汪兆銘は、早くから蔣介石の「焦土抗戦」に反対し、全土が破壊されないうちに和平を図るべきだと主張していた[8]。1938年6月、汪とその側近である周仏海の意を受けた高宗武が渡日して日本側と接触した[10][13]。高宗武自身は日本の和平の相手は汪兆銘以外にないとしながらも、あくまでも蔣介石政権を維持したうえでの和平工作を考えていた[13]

10月12日、汪はロイター通信の記者に対して日本との和平の可能性を示唆したうえで、蔣介石による長沙焦土戦術に対して明確な批判の意を表したことから、蔣との対立は決定的なものとなった[8]。日本では、11月3日に近衛文麿が「東亜新秩序」声明を発表していた(第二次近衛声明[12][14]。これは、日本が提唱する東亜新秩序に参加するならば、蔣介石政権であっても拒まないことを示しており、第一次声明の修正を意味していた[12][14]

11月、上海の重光堂において、汪派の高宗武・梅思平と、日本政府の意を体した参謀本部の今井武夫影佐禎昭との間で話し合いが重ねられた(重光堂会談)[13]11月20日、両者は「東亜新秩序」の受け入れや中国側による満洲国の承認がなされれば日本軍が2年以内に撤兵することなどを内容とする「日華協議記録」に署名調印した[10][12][13]。そして、将来的に日華防共協定がむすばれるならば、日本は治外法権を撤廃し、租界返還も考慮するとされたのである[12][13]

梅思平

この合意の実現のため汪側は、汪が重慶を脱出し、日本は和平解決条件を公表して、それに呼応する形で汪が時局収拾の声明を発表、汪のシンパとして期待される雲南省昆明四川省などの日本未占領地域に新政府を樹立するという計画を策定した[10]12月18日、ついに汪兆銘は重慶からの脱出を決行した[10][12][15][16]。汪一行は昆明に1泊し、12月20日仏領インドシナハノイに着いた[10][12][15][16]。周仏海は、昆明で汪一行に合流し、ともにハノイに渡った[15]。汪の脱出に前後して、陶希聖梅思平らも、それぞれ重慶から脱出した[15][16]

汪派の人びとにとって期待はずれだったのは、昆明の竜雲はじめ、四川の潘文華中国語版第四戦区広東省広西省)の司令官張発奎らが、誰ひとりとして汪兆銘の呼びかけに応じなかったことであった[8][12][15]。さらに打撃だったのが、12月22日、汪の脱出に応える形で発表された近衛声明(第三次近衛声明)であり、これには汪と日本側の事前密約の柱であった「日本軍の撤兵」には全く触れておらず、汪派の人びとを落胆させた[15]

汪兆銘政権の成立

1938年12月29日、汪は通電を発表し、広く「和平反共救国」を訴えた[12][17]。これは、韻目代日による「29日」の日付をとって「艶電」と呼ばれる[12][16][17]。ここで汪は「もっとも重要な点は、日本の軍隊がすべて中国から撤退するということで、これは全面的で迅速でなければならない」と述べ、それ以前の日本側との交渉内容を踏まえ、約束の履行を牽制したものであった[12][17]。しかし、汪に続く国民党幹部は決して多くなく、日本軍撤退もなかった[12][17]。蔣政権はこれに対し、ただちに汪を国民党から永久除名し、一切の公職を解いた[12][16][17]

当初の構想に変更を余儀なくされた汪は、しばらくハノイに滞留した[17]。しかし、1939年3月21日、暗殺者がハノイの汪の家に乱入、汪の腹心曽仲鳴を射殺するという事件が起こった[17]。蔣介石が放った暗殺者は汪をねらったが、その日はたまたま汪と曽が寝室を取り替えていたため、曽が犠牲になったのである[17]

ハノイが危険であることを察知した日本当局は、汪を同地より脱出させることとした[17][18]。陸軍大臣板垣征四郎は、汪兆銘の意思を尊重しつつ安全地帯に連れ出すことを命令し、これを受けた陸軍の影佐禎昭は関係各省の合意が必要と主張して、須賀彦次郎海軍少将、外務省・興亜院からは矢野征記書記官、衆議院議員犬養健らを同行させることを条件に、この工作に携わった[18]4月25日、影佐と接触した汪兆銘はハノイを脱出し、フランス船と日本船を乗り継いで5月6日上海に到着した[16][18]。ハノイの事件は、汪兆銘が和平運動を停止し、ヨーロッパなどに亡命して事態を静観するという選択肢を放棄させるものとなった[19]

汪兆銘は蔣介石との決別を決意した。一方、蔣介石は徹底抗戦を唱えるとともに竜雲・李宗仁唐生智など、かつて汪に親しかった人物の切り崩しを図った[17]。一時は新政府樹立を断念していた汪だったが、ハノイでの狙撃事件を機に「日本占領地域内での新政府樹立」を決意するに至った[18][20]。これは、日本と和平条約を結ぶことによって、日中間の和平のモデルケースをつくり、重慶政府に揺さぶりをかけ、最終的には重慶が「和平」に転向することを期待するものだった[18]

上海に移った汪兆銘はただちに日本を訪れ、平沼騏一郎内閣のもとで新政府樹立の内諾を取り付けた[5]。汪はまた上海で自政権を支える軍隊の創設をめざし国民革命軍などの高級将校に対して「索反工作」と称する離反作戦を活発に展開した[19]5月31日、汪と彼の配下であった周仏海・梅思平・高宗武・董道寧らは横須賀の海軍飛行場に到着し、日本側と協議している[5]。このとき板垣征四郎は、汪兆銘政権が青天白日満地紅旗を用いることに難色を示したが、汪兆銘側もこの点に関しては譲れず、結局、青天白日旗に「和平 反共 建国」のスローガンを書き入れた黄色の三角標識(瓢帯)を加えて和平旗とすることで折り合いがついた[5]

王克敏(左)、汪兆銘(中央)、梁鴻志(右)

帰国した汪兆銘は、1939年8月28日より、国民党の法統継承を主張すべく上海で「第六次国民党全国大会中国語版」を開催し、自ら党中央執行委員会主席に就任して日本占領地内の親日政権の首班であった王克敏(北京)・梁鴻志(南京)の両名と協議し、9月21日、中央政務委員の配分を「国民党(汪派)が三分の一、王克敏の臨時政府と梁鴻志の維新政府が両方で三分の一、その他三分の一」とすることで合意し、彼らと合流して新政府を樹立することとした[5][20]

次いで10月、新政府と日本政府との間で締結する条約の交渉が開始された[5]。しかし日本側の提案は、従来の近衛声明の趣旨からさえ大幅に逸脱する過酷なものであった。日本の示した日華新関係調整要綱のあまりに過酷な条件に汪自身もいったんは新政府樹立を断念したほどである[5]。汪兆銘は『中央公論』1939年秋季特大号(10月1日発行)に「日本に寄す」と題する思い切った論考を発表し、「東亜協同体」や「東亜新秩序」という日本の言論界でしきりに用いられる言葉に対する疑念と不信感を表明し、「日本は中国を滅ぼす気ではないか」と訴えた[5]

1939年12月9日、汪兆銘は「中央陸軍軍官訓練団」を組織した[19]。これは、旧維新政府の兵士の受け容れ先であったとともに、南京国民政府の国軍「和平建国軍」のもととなった[19]

1940年1月、汪新政権の傀儡化を懸念する高宗武と陶希聖が和平運動から離脱して「内約」原案を外部に暴露する事件が生じた[5]。汪兆銘は最終段階において腹心と思われた部下に裏切られたことに動揺したものの、日本側が最終的に若干の譲歩を行ったこともあり、この条約案を最終的に承諾した[5]。一方、それまで態度を保留し、政府を2つに割ることにあくまでも反対していた陳公博は正式に汪兆銘の側に身を寄せた[5]

台湾日日新報の「祝新国民政府成立」の新聞広告(1940年)
「汪精衛さんを応援しよう」(原文:擁護汪精衛先生(さん))と書かれた汪兆銘政権の標語

民国29年(1940年)3月30日、南京国民政府の設立式が挙行された[11][14][20][21][22]。汪兆銘政権は、国民党の正統な後継者であることを示すため、首都を重慶から南京に還すことを意味する「南京還都式」のかたちをとった[20][22]。ただし、汪は重慶政府との合流の可能性も考慮して、当面のこととして新政府の「主席代理」に就任し、重慶政府にいた国民党長老の林森を名目上の主席とした[20][22]。政府の最高機関は中央政治委員会中国語版で、その下には軍事委員会が設置された[19]。蔣介石はこの日、汪兆銘に従った77名の逮捕令を発した[22]

北京の中華民国臨時政府と南京の中華民国維新政府は、「還都式」前日の3月29日に解散して新国民政府に合流したが、臨時政府の方は華北政務委員会に改編され、汪の南京政権のもとで一定の自治を保った[19]

新政府では汪の妻の陳璧君も重要な役割を果たし、陳璧君とその義弟の褚民誼、汪の女婿で私設秘書の何文傑、汪の秘書林柏生、臨時政府の王克敏、維新政府の梁鴻志といった人びとが「公館派」として名を連ねた[19][22][23]。一方、周仏海をはじめとするグループは「実力派」と呼ばれ、繆斌項致荘、周縞、特務機関丁黙邨などから成った[19][19][22]。陳公博は、「公館派」「実力派」いずれの派閥にも属さなかった[19]。なお、戦後日本の内閣総理大臣を務めた福田赳夫は汪兆銘政権の財政顧問であり、のちに中華人民共和国主席となった江沢民の実父(江世俊中国語版)は、汪の南京国民政府の官吏であった。







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