汪兆銘政権
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外交
汪兆銘の南京国民政府が成立したのは1940年3月30日のことであったが、日本がこの政府を正式に承認したのはそれから8か月後の11月30日のことであった[22]。これは、重慶政府とのあいだにも並行して桐工作と銭永銘・周作民工作といった和平工作を進めていた日本側の事情によるところが大きかったが、両工作とも不調に終わったのであった[24]。承認当日、日本と汪兆銘政権は日華基本条約(日本国中華民国基本関係に関する条約)を結んでいる[20]。
南京国民政府は、日本と防共協定を締結していたドイツ・イタリアと1941年7月1日に、アジアにおける数少ない独立国タイ王国とは1942年7月7日に、それぞれ国交を結んだ、[42][注釈 6]。そのほか、フランスのヴィシー政権や満洲国、クロアチア独立国、ハンガリー、スロバキア、ルーマニア、ブルガリアなどの枢軸国が国家承認した。中立国ではバチカン市国、スペインが汪の南京国民政府を正式な国家として承認した[59]。
一方、イギリスやアメリカ合衆国(アメリカ)、ソビエト連邦(ソ連)、オランダなどの連合国側からの承認は得られなかった。1941年11月にアメリカが日本に提示したハル・ノートでは、「蔣介石政権以外のいかなる政府も認めない」として、汪兆銘政権の不承認が示された[42]。
上述の通り、1943年1月の汪兆銘政権の対米英参戦と同時に日本は汪政権との間に租界還付、治外法権撤廃の協定を結び、米英もその直後、蔣介石政権との間で従来の諸特権を放棄する条約を結んだ[6][35][38]。これにより中国は、アヘン戦争以来つづいた不平等条約をほぼ解消するに至ったが、この点に関して中国外交史における汪兆銘政権の貢献は決して小さいものではない[6][35]。
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