汪兆銘政権 行政区画

汪兆銘政権

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/02 03:17 UTC 版)

行政区画

日本軍占領地(1940年)
日本軍占領地(1945年)
斜線は中国共産党の勢力範囲

1945年の政府消滅時点で、汪兆銘政権の実効支配地域は15の、10の特別市、そして5つので区分されていた。だが、華北では華北政務委員会に業務を委託し、内モンゴルでは蒙古聯合自治政府が自治権を有していたため、中央政府の直接的な支配は9つの省と3の特別市にしか及ばなかった。

政権と民衆動員

東亜連盟運動

汪兆銘は1940年5月以降中国各地で高揚していた東亜連盟運動を通じて国民党組織の再建を図った[55]。東亜連盟運動は、当初日本人が始めたもので、その嚆矢は石原完爾とその信奉者である木村武雄らであり、石原と近い板垣征四郎もこれに連なり、中国人では繆斌をそのさきがけとした[55]。1939年10月に木村が中心となって日本で結成された東亜連盟協会は、指導原理として「王道」を、連盟結成の基礎条件として「国防の共同」「経済の一体化」「政治の独立」を掲げた[55]。繆斌は自らその中心人物として活動した北平新民会を脱会し、1940年5月に北平(北京)で中国東亜連盟協会を結成した[55]。つづいて林汝珩が同年9月に広東で中華東亜連盟協会を、周学昌が同年11月に南京で東亜連盟中国同志会をそれぞれ結成した[55]。しかし、1941年1月14日、日本政府が日本国内の東亜連盟の解散を閣議決定し、日本側の活動は停滞を余儀なくされたため、中国側もその影響を当然大きく受けたものの、その一方では日本側の草の根の活動がきわめて真摯なものであることが中国側の運動者にも確実に伝わったのであった[55]。日本政府の解散命令は、石原完爾と東条英機の対立だけでなく、そこに汪兆銘らが重視する「政治の独立」がうたわれており、東条の立場からは相容れないものだったことにも起因していた[55]。一方、当時の中国が求めたものこそ、まさしく「政治の独立」だったのである[55]

1941年2月1日、汪兆銘は繆・林・周の3つの協会を合わせて東亜連盟中国総会を主宰し、自らその会長に就任して直接運動を指導した[55]。そして、『東亜連盟月刊』などの雑誌を通じて自らの三民主義理解や「大亞洲主義」の宣伝普及のために利用した[55]。支部も北平、徐州、南京、上海、武漢、広東、汕頭に広がり、出版物も12種類以上に及んだ[55]。汪兆銘が東亜連盟運動に関わろうとした直接のきっかけは板垣征四郎の勧めによるといわれているが、これについては日本側がつくった南京の大民会、上海の興亜建国運動、武漢の共和党の解散と交換条件だったという説がある[55]。いずれにせよ、この3団体は解散して汪の指導する東亜連盟運動に合流した[55]。運動への参加者は最盛期には数百万に達したといわれる[55]。汪兆銘は、このようにして汪政権の国民党組織の下に東亜連盟運動を統合し、日中提携を推進する一方で国民党組織ネットワークの復活と拡大による汪政権の基盤強化を図ったのである[55]

新国民運動

東亜連盟運動は当初は日本側の要請により始まって国民党組織の復活・拡大という目的を達したが、この運動が失速すると、もうひとつの大きな目的、すなわち汪の「三民主義」「大亞洲主義」を普及宣伝するための運動が必要となり、この運動は汪兆銘政権の内側から起こってきた。それが「新国民運動」である。

汪兆銘は、1941年11月5日の国民党六期四中全会で新国民運動の方針を示し、1942年1月1日、汪自身によって「新国民運動綱要」が正式に配布された[55]。そこでは、日本軍占領下の中国国民のあいだに「中国を愛し東亜を愛する心を涵養」することが目指され、それによって「国民の新精神」を育成しようとするものであった[55]。1943年1月の対米英参戦後は、最高国防会議を設置して、この運動を政府統制下に置くことによって戦争協力体制を確立する一方、政権基盤のいっそうの強化を図ったのである[55]

この運動の特色は政府が青少年を対象に「愛中国愛東亜」をスローガンに掲げて訓練を実施し、公務員に対しても夏季訓練を実施して、三民主義は「救国主義」にほかならないことの強調、三民主義のうち「民族主義」は大亞州主義の実現、具体的には「不平等条約の廃棄」、「民権主義」は個人独裁とは異なる民主集権制の実行、具体的には「国家の自由」、「民生主義」は「国家資本の発達」であり、一階級のものではない人民全体の幸福を追求することであるとしたうえで、新国民運動の「最高目標」は孫文に淵源を発する三民主義であると説いた[55]。そのなかでは「除三害」すなわち青少年の「アヘン」「賭け事」「演劇狂い」の三害を取り除くことが提唱され、また、日本で明治維新が成功し、中国で辛亥革命が失敗に帰したのは、「公と私」に対する人々の意識に違いによるものであるとの説の紹介など、さまざまな実践が含まれていた[55]。その具体的な内容は多岐にわたるが、このようにして汪政権は中国の地に愛国心と国家意識をともなった「新国民」をつくりあげようとしたのである[55]。この運動は多分にドイツや日本の全体主義思潮や戦時における国家総動員の思想の影響を受け、現代の中国では「敵国に奉仕する奴隷化教育」という否定的評価が下されている。また、実際には政権基盤強化としての効果はそれほど大きくなかったともいわれている[55]。しかし、一方で不平等条約改正という目標に向けては一定の成果を挙げることにはつながったという見方も示されている[55]

政権の性質と評価

「傀儡政権」

汪兆銘政権が南京に創設した水利委員会
汪兆銘政権が発行したパスポート

中華人民共和国の中学校歴史教科書においては、汪兆銘政権について、以下のように紹介されている[60]

日本帝国主義の勧誘で、国民政府内親日派の親玉汪精衛は公然と祖国を裏切り、敵の陣営に投じて売国奴となった。1940年3月、日本は汪精衛を援助し、南京に傀儡国民政府を成立させた。これは売国奴の傀儡政権であり、完全に日本帝国主義の命令に従い、日本の中国侵略の道具となった。傀儡政権の創設は、日本が中国を滅ぼし、占領区で植民統治を行うための罪深い措置だった。

中国では、大陸にあっても台湾にあっても、対日協力政権に関わったり、日本側に協力したりした人物を「漢奸」と呼称し、民族の裏切り者、売国奴として扱われるのが一般的であり、汪兆銘はその典型的な例、すなわち「日本に寝返った最悪の裏切り者」とされる[61][62][63]。さらに、汪兆銘の政権は、日本の完全な傀儡政権とみられており、中国においては「偽」の字を冠して「汪偽政権」のように表記されることが多い[61]。日本敗戦後の中国では、日本軍民に対する戦犯裁判とは別に、中国人の漢奸を摘発して「漢奸裁判」を行い、汪兆銘政権の要人はその多くが銃殺刑に処せられたのである[61]

中国出身の歴史学者劉傑は、「日本人が汪兆銘を愛国者と評価することはもちろんのこと、彼に示した理解と同情も、中国人から見れば、歴史への無責任と映るのかも知れない」と述べている[64]。ただし、劉傑は一方では中国の国力の低迷を嘆いて日本軍占領地での「和平工作」にすべてを賭けた彼を、「現実的対応に徹した愛国者」として評価しており、このように、少数ではあるが中国出身の人々のなかにも汪政権を肯定的にとらえる見方がないわけではない[54][62]

そして、実際上も汪兆銘政権が米英に宣戦布告したことが、日本側さらに米英の不平等条約解消につながるなど中国の主体性確保と国際的地位の向上に寄与した一面もある[35][54]。汪兆銘政権の経済関係省庁の文書をみると、水利建設などでは一定の主導性を有しており、また、日本は中華民国に対し宣戦布告はしなかったことから、日本国内の華僑のほとんどは汪兆銘政権の管轄下にあり、東南アジアにおける日本占領下の地域に住む中国籍の人びとについても同様だった[65]。汪兆銘政権が傀儡政権であるにしても、単なる「傀儡」ではなく、「政権」としての内実をともなっていたことには注意が必要である[65]

ヴィシー政権との比較

汪兆銘政権を「傀儡政権」とみなす考え方は、上述のように、従来長きにわたって疑問視されることもなかったが、汪兆銘らは最初から「傀儡」ないし「漢奸」になるつもりだったのではなく、もし当初からそのつもりならば、日本との不平等条約解消を実現することもなかったであろうという指摘がある[55]。これはむしろ、第二次世界大戦における日本の敗北という結果を前提にしたうえで、結果から遡及して日本への「抵抗」を善、「協力」を悪とする二項対立の図式によって歴史を描こうとするものだったのではないかという問題提起もなされている[55]。近年では、カナダの歴史学者ティモシー・ブルックによる、汪政権下の地方エリートを主対象とした研究のように、そうした二項対立から距離を置いて、抵抗と協力の間の曖昧な部分に光を当てて当時の歴史の実相に迫ろうとする研究が現れるようになった[55]

明治大学の土屋光芳は、汪兆銘政権とほぼ同時期に「対独協力」を行い、戦後、その指導者たちも戦犯裁判で裁かれたフランスのヴィシー政権との比較を試みている[55]。それによれば、ヴィシー政権は、当初、汪兆銘政権よりもいっそう敵国ドイツのイデオロギーに対する親和性や一体感が強く、大戦勃発前のフランス第三共和政の政治理念を否定する「国民革命」を掲げており、そこでは「労働、家族、祖国」のスローガンを唱えているが、政権後期に至ると「対独協力」が強化され、ナチス・ドイツへの従属の度合いをむしろ強めていった[55]。それに対し、汪兆銘政権はヴィシー政権よりも日本からイデオロギー的に自立していたのみならず、対米英戦争に参戦したのちは「対日協力」を強めると同時に政権の自立性を維持・強化していき、不平等条約撤廃の実現という成果を挙げている[55]。その意味では、両政権にはその特徴と成果においてきわだった違いがみられるのである[55]。こうした違いが、なぜ生じたかについては土屋による詳細な研究があり、それによれば、上述した大亞州主義、東亜連盟運動、新国民運動といった汪政権の基盤強化の戦略が一定の効果を挙げたものと分析されている[55]







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