幣原喜重郎 生涯

幣原喜重郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/06 14:19 UTC 版)

生涯

生い立ち

明治5年8月11日1872年9月13日)、堺県茨田郡門真一番下村[2](現・大阪府門真市)の豪農の家に生まれた[3]。兄・は教育行政官、台北帝国大学初代総長。大阪城西側にあった官立大阪中学校(のち京都に移転、第三高等中学校となる)から、第三高等中学校(首席卒業)を経て、1895年(明治28年) 東京帝国大学法科大学卒業。濱口雄幸とは、第三高等中学校、帝国大学法科大学時代を通じての同級生であり2人の成績は常に1、2位を争ったという。

大学卒業後は農商務省に入省したが、翌1896年(明治29年)外交官試験に合格し、外務省に転じた[1]

外務省

1929年の幣原
タイム1931年10月12日号の表紙に掲載された幣原

外務省入省後、仁川、ロンドン、ベルギー、釜山の各領事館に在勤後、ワシントン、ロンドンの各大使館参事官、オランダ公使を経て1915年大正4年)に外務次官となり、1919年(大正8年)に駐米大使[1]第一次世界大戦後にアメリカ合衆国大統領ウォレン・ハーディングの提唱で開かれた国際軍縮会議ワシントン会議においては全権委員を務める[1]

ワシントン軍縮会議前の全権大使。左から幣原喜重郎・加藤友三郎徳川家達
1921年10月24日ワシントン会議にてロバート・ウッズ・ブリス(左から1人目)、ロバート・クーンツ(左から3人目)、加藤寛治(右から3人目)、田中国重(右から2人目)、アンドレ・ブリュースター(右から1人目)と

外務大臣歴任

外務大臣になったのは1924年(大正13年)の加藤高明内閣が最初であった。以降、若槻内閣(1次2次)、濱口内閣憲政会立憲民政党内閣で4回外相を歴任した。

彼の1920年代自由主義体制における国際協調路線は「幣原外交」とも称され、軍部の軍拡自主路線「田中外交」と対立した。ワシントン体制に基づき、対米英に対しては列強協調を、民族運動が高揚する中国においては、あくまで条約上の権益擁護のみを追求し、東アジアに特別な地位を占める日本が中心となって安定した秩序を形成していくべきとの方針であった。そのため、1925年(大正14年)の5・30事件においては、在華紡(在中国の日系製糸会社)の中国人ストライキに対して奉天軍閥張作霖に要請して武力鎮圧するなど、権益の擁護をはかっている。

1926年(大正15年)に蔣介石国民革命軍率いて行った北伐に対しては、内政不干渉の方針に基づき、アメリカとともにイギリスによる派兵の要請を拒絶。しかし、1927年(昭和2年)3月に南京事件が発生すると、軍部や政友会のみならず閣内でも宇垣一成陸相が政策転換を求めるなど批判が高まった。こうした幣原外交への反感は金融恐慌における若槻内閣倒閣の重要な要素となった。

1930年(昭和5年)にロンドン海軍軍縮条約を締結させると、特に軍部からは「軟弱外交」と非難された。1931年(昭和6年)夏、広州国民政府の外交部長陳友仁が訪日し、張学良を満洲から排除し満洲を日本が任命する政権の下において統治させ、中国は間接的な宗主権のみを保持することを提案したが、幣原外相は一蹴した。その後、関東軍の独走で勃発した満洲事変の収拾に失敗し、政界を退いた。幣原外交の終焉は文民外交の終焉であり、その後は軍部が独断する時代が終戦まで続いた。

なお、濱口内閣時代には、濱口雄幸総理の銃撃による負傷療養期間中、宮中席次の規定により次席であった幣原が内閣総理大臣臨時代理を務めた[4]立憲民政党の党員でなかった幣原が臨時代理を務めたことは野党立憲政友会の批判の的となり、また同じく批判されたロンドン条約については天皇による批准済みであると国会答弁でしたことが天皇への責任転嫁であると失言問題を追及された[5]。その際の首相臨時代理在任期間116日は最長記録である。

第2次若槻内閣の総辞職以降は表舞台から遠ざかっていたが、南部仏印進駐のころに近衛文麿に今後の見通しを訊かれ、「南部仏印に向かって出帆したばかりの陸軍の船団をなんとか呼び戻せませんか?あるいは台湾に留め置けませんか?それが出来ずに進駐が実現すれば、絶対アメリカとの戦争は避けられません」と直言し、予言が的中した逸話が残っている。

第二次世界大戦末期の1945年5月25日、空襲により千駄ヶ谷の自邸が焼失。多摩川畔にあった三菱系の農場に移った[6]

内閣総理大臣

1945年10月9日幣原内閣の閣僚らと
幣原喜重郎

戦後の1945年10月9日に、10月5日東久邇宮内閣総辞職を受け内閣総理大臣に就任[7]。本人は首相に指名されたことを嫌がって引っ越しの準備をしていたが、同じく指名を固辞した吉田茂の後押し[8]昭和天皇じきじきの説得などもあり[要出典]政界に返り咲いた。幣原の再登場を聞いた古手の政治記者が「幣原さんはまだ生きていたのか」と言ったという逸話が残る[要出典]ほど、当時の政界では忘れられた存在となっていたが、親英米派としての独自のパイプを用いて活躍した。ただし、吉田が幣原を首相に推したのは吉田の政治的な地位作りのためであったともいわれている[要出典]

1945年10月11日マッカーサーに新任の挨拶を行うために連合国軍最高司令官総司令部を訪問。挨拶という体裁ではあったが、持ち前の卓越した英語力、外交官としての見識などを持って一時間にわたる会談となった。マッカーサーからはポツダム宣言に沿って憲法改正を行うこと、人権確保のための改革を行うこと、厳冬期対策を急ぐべきことの要求が出された[9]

この後もマッカーサーとは1946年1月24日に会談[要出典]この会談で幣原は平和主義を提案、皇室の護持と戦争放棄の考えを述べた。(マッカーサー大戦回顧録ダグラス・マッカーサー 著 津島一夫 訳p456‐457、日本国憲法 鉄筆文庫 2016年 141‐142)[独自研究?]GHQ案は2月13日に日本政府の3人(吉田茂外相、松本国務相、白洲次郎終戦連絡中央事務局参与)に伝えられた後、幣原に報告されるが、日本側はその内容を深刻に受けとめて閣議が開かれるまでに6日もかかっている[要出典][10]また、この19日の閣議では幣原本人をはじめ閣僚も「我々はこれを受諾できぬ」と言ったとの記録があり、こうした動きは、そもそも幣原が言い出したものであれば常識的に考えづらいとする[要出典][10]幣原は戦争放棄について「日本は考えたこともなかった」などと語っていたとも[要出典]幣原の憲法草案が保守的でGHQから拒否されたというのは誤解であり、GHQから拒否されたのは、幣原・マッカーサー会談の後に出来た国務大臣松本烝治を長とする憲法問題調査会(松本委員会)がまとめた「松本案」である[要出典]但し、1月24日の会談で「戦争放棄」という約束がされたならある程度「松本案」反映されるはずがそれもなく、GHQから現状維持の憲法と判断され却下され、GHQ側で草案が作られる事になった[要出典]

1946年2月22日、GHQ側から渡された憲法草案の受け入れを閣議決定。同日、天皇を訪ね経緯と内容を報告した[11]

晩年

衆院議長(1949年)

旧憲法下最後、そして戦後初の総選挙となる1946年(昭和21年)4月10日の第22回衆議院議員総選挙では、日本自由党が第一党となり総辞職。第1次吉田内閣が発足する。幣原は無任所の国務大臣として入閣(のちに復員庁総裁兼務)。

1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙で初当選[12]日本進歩党総裁となり、民主党の結成にも参加したが、片山内閣社会主義政策を批判して田中角栄原健三郎本間俊一中山マサ小平久雄ら幣原派の若手議員とともに民主自由党に参加、衆議院議長に就任する[13]。内閣総理大臣経験者の衆議院議長は初めてであった(貴族院議長は初代の伊藤博文が第1次内閣と第2次内閣の間に在任しており、他に近衛文麿が議長経験後に首相就任している。衆議院と参議院は幣原の後も例がない)。

死去

1951年昭和26年)3月10日、議長在任中に心筋梗塞のため[14]死去[15]享年80(満78歳没)。議長在任中の死去であったことから、葬儀は衆議院葬として行われた[16]。墓所は豊島区駒込染井霊園


  1. ^ a b c d 幣原喜重郎』 - コトバンク
  2. ^ 門真ゆかりの人々 幣原喜重郎(しではら きじゅうろう) 門真市
  3. ^ 幣原喜重郎 | 三菱グループサイト”. www.mitsubishi.com. 2022年3月5日閲覧。
  4. ^ 『官報』第1166号、昭和5年11月17日、p.284『官報』第1256号、昭和6年3月10日、p.194
  5. ^ 井上寿一『政友会と民政党』2012年、中公新書、p.114
  6. ^ 五百籏頭真 1997, p. 108
  7. ^ 『官報』号外、昭和20年10月9日
  8. ^ 吉田茂が固辞、幣原にお鉢が回る(昭和20年10月7日 毎日新聞(東京))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p239 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  9. ^ 幣原首相に人権確保の五大改革要求(昭和20年10月13日 朝日新聞)『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p357
  10. ^ a b 古関彰一 日本国憲法の誕生
  11. ^ 憲法草案に昭和天皇「これでいいじゃないか」 幣原首相との面談メモが見つかる”. huffingtonpost (2017年5月2日). 2022年2月12日閲覧。
  12. ^ 第23回衆議院議員総選挙一覧』衆議院事務局、1948年、366頁。 
  13. ^ 『官報』第6625号、昭和24年2月15日、p.115
  14. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)14頁
  15. ^ 『官報』第7250号、昭和26年3月13日、p.212
  16. ^ 衆議院先例集 昭和38年版』衆議院事務局、1963年、630-631頁。 
  17. ^ 『官報』第4004号「叙任及辞令」1896年10月31日。
  18. ^ 『官報』第5337号「叙任及辞令」1901年4月22日。
  19. ^ 『官報』第6085号「叙任及辞令」1903年10月12日。
  20. ^ 『官報』第6750号「叙任及辞令」1905年12月28日。
  21. ^ 『官報』第7425号「叙任及辞令」1908年3月31日。
  22. ^ 『官報』第8477号「叙任及辞令」1911年9月21日。
  23. ^ 『官報』第1009号「叙任及辞令」1915年12月11日。
  24. ^ 『官報』第2173号「叙任及辞令」1919年11月1日。
  25. ^ 『官報』第3085号「叙任及辞令」1922年11月11日。
  26. ^ 『官報』第4025号「叙任及辞令」1926年1月27日。
  27. ^ 『官報』第1245号「叙任及辞令」1931年2月25日。
  28. ^ 『官報』第7252号「叙任及辞令」1951年3月15日。
  29. ^ 『官報』第7578号・付録「辞令」1908年9月28日。
  30. ^ 『官報』第8454号「叙任及辞令」1911年8月25日。
  31. ^ 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
  32. ^ 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。
  33. ^ 『官報』第2431号「授爵、叙任及辞令」1920年9月8日。
  34. ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
  35. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
  36. ^ 『官報』第1488号「叙任及辞令」1931年12月14日。
  37. ^ 『官報』第2995号・付録「叙任及辞令二」1936年12月24日。
  38. ^ 『官報』第5152号・付録「叙任及辞令二」p19最下段 1944年3月18日。
  39. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  40. ^ 『官報』第566号「叙任及辞令」1914年6月20日。
  41. ^ 『官報』第996号「叙任及辞令」1915年11月26日。
  42. ^ 『官報』第1777号「叙任及辞令」1918年7月5日。
  43. ^ 『官報』第3868号「叙任及辞令」1925年7月15日。
  44. ^ 『官報』第4206号「叙任及辞令」1926年8月30日。
  45. ^ 『官報』第79号「叙任及辞令」1927年4月7日。
  46. ^ 『官報』第1426号「叙任及辞令」1931年9月29日。
  47. ^ 『官報』第1500号「叙任及辞令」1931年12月29日。
  48. ^ 『官報』第2511号・付録「辞令二」1935年5月20日。
  49. ^ 幣原喜重郎に組閣の大命(昭和20年10月7日 朝日新聞)『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p239
  50. ^ 「ケア物資 十万個は幣原さんに」『日本経済新聞』昭和25年11月21日3面
  51. ^ a b c d 『池上彰と学ぶ日本の総理 30』、9頁。
  52. ^ a b c d 『人事興信録 第9版』、コ73頁。
  53. ^ 『人事興信録 第9版』、シ21-シ22頁。
  54. ^ a b c d 新・未知への群像 古在由秀氏 1 - インターネットアーカイブ内のページ
  55. ^ 『人事興信録 第9版』、シ22頁。
  56. ^ a b 『閨閥 新特権階級の系譜』 「三菱財閥」創業家・岩崎家 大財閥“三菱王国”を築いた岩崎一族の系譜 394-407頁
  57. ^ https://www.dokkyo.com/community/ob-class/article-1294/
  58. ^ a b c d e 平成新修旧華族家系大成上p716
  59. ^ 『「家系図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣 昭和・平成篇』竹内正浩、実業之日本社、幣原喜重郎の章
  60. ^ No.12 門真出身の総理大臣 幣原喜重郎(下)パナソニック松愛会
  61. ^ 憲法9条「戦争放棄条項」は、誰が作ったのか マッカーサー説と幣原喜重郎説を検証する 細谷雄一東洋経済オンライン、2018年10月15日
  62. ^ 二・二六事件について』初出:週刊読売 1968年2月23日号に掲載
  63. ^ 林房雄との対談『対話・日本人論』(番町書房、1966年。夏目書房 新版、2002年)および、三島の作品『英霊の聲






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