タイタニック号沈没事故
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/15 16:19 UTC 版)
![]() Untergang der Titanic ("タイタニック号沈没") ウィリー・ストーワー, 1912 | |
日付 | 1912年4月15日 |
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時刻 | 23:40 – 02:20 |
場所 | 北大西洋 |
原因 | 氷山との衝突 1912年4月14日 |
関係者 | 主要人物
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結果 |
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タイタニック号沈没事故(タイタニックごうちんぼつじこ)とは、1912年4月14日の夜から4月15日の朝にかけて、イギリス・サウサンプトン発アメリカ合衆国・ニューヨーク行きの航海中の4日目に、北大西洋で起きた海難事故である。
当時世界最大の客船であったタイタニックは、1912年4月14日の23時40分(事故現場時間)に氷山に衝突した時には2,224人を乗せていた。事故発生から2時間40分後の翌4月15日の2時20分に沈没し、1,514人が亡くなり、710人が生還した。これは1912年当時、海難事故の最大死者数であった[注 1]。1958年と1997年には映画が公開された。
事故概要
ニューヨーク港に向けて航行中に「海氷が存在する」という警告を4月14日中に7件受けていたにもかかわらず、タイタニックの見張りが氷山に気付いたとき船は最高速に近いスピードで進んでいた。衝突を避けようとしたが、船は右舷側に斜方向からの打撃を受け、全16区画のうち5つの区画に穴が開いてしまった。
タイタニックの船首部は4つの区画が浸水しても沈まないように設計されていたが、それでも十分ではなく、敏感なクルーはこの船が沈没することを察知した。クルーは遭難信号灯と無線で助けを求め、乗客を救命ボートに乗せた。しかし、それは近くの救助船までの移乗用として簡易的に設計されたもので、搭載数もすべての乗船者を載せるにはあまりに少ないものだった。
船体沈没の進行は予想よりも早かった。やむなくボートには女性と幼い子供が優先的に乗せられ、多くの男性は強制的に排除されたが、クルーも救助活動に不慣れな者が多く、定員に満たないまま出発するボートもあった。結果的に多数の乗客乗員が船に取り残された。
タイタニックは1,000人以上を乗せたまま沈んだ。海に浸かった人のほとんどが数分後に低体温症により死亡した。救助にあたった客船「カルパチア」が4月15日の9時15分に最後の1人を救い上げた時は、既に船の沈没から7時間、衝突から実に約9時間半が経っていた。
この災害は、救命ボートの数、緩い規則、旅客の等級によって異なる避難時の対応など、ずさんな危機管理体制が多くの人の義憤を引き起こした。この事故をきっかけとして救助のあり方が見直され、1914年に海上における人命の安全のための国際条約(SOLAS)が作られた。これは今も海の安全を守っている。
1912年4月14日
氷山の警告 (9時00分–23時39分)
1912年4月14日、タイタニック(呼出符号: MGY)の無線オペレーターは他の船舶から漂流している氷について6件の警告の通信を受け取っており、タイタニックに乗船している人々の中にも、この日の午後にそのことを知った者がいた。北アメリカの海における氷の規模は、4月としては過去50年間で最大であったが、見張りの者はタイタニックが幅も長さも何マイルもあるような氷山群に向かって突き進んでいることに気付いていなかった[1]。また、オペレーターもこうした通信を逐一中継していなかった。
船舶での無線電信による公衆通信(電報サービス)は1900年に商用化されていたが、その後しばらくの間は、船舶無線局は海運会社のものではなく、無線会社の管轄下にあり、船に設置する無線機やアンテナは勿論、無線オペレーターも無線会社に所属していた。当時の大西洋定期航路を運航していた英国の大手海運会社のほとんどは、英国系のマルコーニ国際海洋通信会社に公衆通信の業務を委託しており、タイタニックの無線オペレーターも同社の社員だった。彼らは船舶のクルーではなく、乗船客の電報サービス業務を第一義に乗船しており、気象についての報告は副次的な業務であった。
氷山と氷原に関する最初の報告は9時00分にカロニア号から届いた[2]。スミス船長はこのメッセージの受信確認を行っている。13時42分にはバルティック号がギリシャ船アテニア号から氷山と氷原の目撃情報を受け、タイタニックへ中継している[2]。このメッセージもスミスが受信確認し、ホワイト・スター・ラインのトップでタイタニックの処女航海に同乗していたJ・ブルース・イズメイに見せた[2]。その後スミスは航路を南寄りに変更した[3]。
13時45分には、少し南側を航行していたドイツ船アメリカが「大きな氷山ふたつを通り過ぎた」という報告をした[4]。このメッセージはスミス船長にも、タイタニックの船橋にいた他の上級船員にも伝わらなかった。理由は定かではないが、無線オペレーターが機器の不具合を直さねばならなかったため、このメッセージの伝達を忘れたのではないかと言われている[4]。
カリフォルニアンは19時39分に「3つの大きな氷山」の存在を報告、21時40分に汽船メサバ号が
クルーは近くに氷があることに気付いてはいたが、船は減速せず、最高速度である24ノット(時速44キロメートル、28mph)からたった2ノット(時速3.7キロメートル、2.3mph)遅いだけの22ノット(時速41キロメートル、25mph)で航行していた[4]。のちに、氷のある海域での高速航行は無謀だと批判されることとなったが、これは当時としては標準的な海洋航行の慣習を反映するものであった[6]。
北大西洋の定期便では何よりも定時航行を最優先事項として、公示された時刻に必ず到着できるようスケジュールを厳しく守ることになっていた。したがって、しばしば限界に近い速度で航行せざるを得ず、危険に対する警告も、行動を要請するものというよりは単なる注意程度のものとして扱っており、氷も大したリスクではないと広く信じられていた。船の衝突を危機一髪でかわすことも日常的であり、正面衝突ですら今まで大事故にはなっていなかった。1907年にドイツの定期船クロンプリンツ・ヴィルヘルム号が氷山に激突して船首が大破することとなったが、それでも航海を完遂できた。同年、のちにタイタニックの船長となるエドワード・スミスは「船の沈没を引き起こすような状況は想像できない。現代の造船はそういうレベルを超えている」とインタビューで宣言していた[7]。
「前方に氷山!」 (23時38分46秒)
衝突
タイタニックが致命的な事故に近づく時までに、ほとんどの乗客は眠りについており、船橋の指揮は二等航海士チャールズ・ライトラーから一等航海士ウィリアム・マクマスター・マードックに移管されていた。監視役のフレデリック・フリートとレジナルド・リーはデッキから29メートルの高さにある見張り台にいた。気温は氷点下近くまで下がっており、海面は完全に鎮まっていた。事故の生存者であるアーチボルド・グレイシー大佐は「海は鏡のようで、星がはっきり映るくらい水面がなめらかだった」と後に書いている[8]。現在では、このように極めて凪いだ海面は近くに叢氷があることを示すものと認識されている[9]。
空気は澄んでいたが月は見えず、海が静か過ぎて、近くにある氷山の場所の手がかりになるようなものは何もなかった。海がもう少し荒れていたら、氷山にぶつかる波の影響でもっと場所が見えやすくなったであろう[10]。サウサンプトンでごたごたがあったため監視役は双眼鏡を持っていなかった。しかしながら、星の光と船自体から出る光以外に光源がない全くの暗闇では双眼鏡は役に立たないとも言われている[11]。それにもかかわらず、ライトラーが他のクルーに氷に対して注意するよう周知していたので、監視役は氷の危険性があることには気付いていた[12]。
23時30分、フリートとリーは前方の水平線上にかすかな靄があることに気付いたが、これを特に重視しなかった。9分後の23時39分に、フリートはタイタニックの進行方向に氷山があるのを見つけた。フリートは監視鐘を3回鳴らし、船橋に電話をして六等航海士ジェームズ・ムーディに知らせた[13]。
- フリート「Is anyone there?(訳: 誰かいないのか?)」
- ムーディ「Yes, what do you see? (何があったんだ?)」
- フリート「Iceberg rightahead! (前方に氷山がある!)」
- ムーディ「Thank you. (わかった。)」
フリートに感謝の意を伝えたあと、ムーディはメッセージをマードックに伝達し、マードックは操舵員のロバート・ヒッチェンスに航路を変えるよう命じた[14]。マードックは船の進路を左方向に変えるべく「(舵輪を)右舷一杯 」("Hard a'starboard")、つまり取り舵一杯と命令したと信じられており、この結果、舵柄が右舷一杯に動かされた[11]。マードックはエンジン命令電信で「全速後進」("Full Astern")をも告げた[3]。
四等航海士ジョセフ・ボックスホールによると、マードックはスミス船長に「左舷一杯に(氷山を)回る」("hard-a-port around [the iceberg]")ことを試みると述べていた。これは「左舷旋回」("port around")の操作を試みていたことを示唆する。つまり、船首を回転させて障害物を周り、その次に船尾を回して、船の両側が衝突を回避するように旋回させることである。命令が効力を発揮するまでには遅れがあった。蒸気で動いている操縦システムでは、船の舵柄を回転させるまで30秒かかった[3]。エンジンを逆回転に設定する複雑な作業を行うにも時間がかかった[15]。中央タービンを逆回転させることができなかったため、舵のすぐ前に置かれた中央タービンと中央スクリューは単に停止しただけになってしまった。このため舵の効きが悪くなり、したがって船が旋回する力が弱くなった(一般に、船は速力が高い方が舵効きが良い)。このことから、マードックがスピードを維持したまま前進しつつ船を旋回させていれば、タイタニックは氷山を避けられていた可能性も指摘される[16](とはいえ、それは結果から見た推論に過ぎない)。
その結果、タイタニックの舳先は正面衝突を避けられたが、方向転換の影響で斜めに氷山にぶつかった。海面下にある氷山の下部が船の右舷を7秒間ほど擦り、氷山の上部から剥がれた氷片が前方デッキに落下してきた[17]。数分後、タイタニックの全エンジンが停止し、船は北向きでラブラドル海流に漂うことになった[18]。
衝突の結果
氷山の衝突は船殻に大きな穴をあけたと長らく信じられていた[19]。事故後の英国による調査で、タイタニックを建造したハーランド・アンド・ウルフの船体建築責任者エドワード・ワイルディングは、衝突の40分後に前方コンパートメントに起こった浸水量から計算して船殻部分に「12平方フィートくらい」の穴が海に向かって開き、さらにその穴が複数箇所にわたっていた可能性を証言した[20]。調査による発見から損傷は300フィートに及ぶと推定され、これ以降多くの著述家がこの証言に従ってきた。現代の超音波を用いた残骸探査では、損傷は6個の狭い穴で、全部で船体の12 - 13平方フィート (1.1 - 1.2 m2)くらいに過ぎなかったということがわかっている[21]。
裂け目は最大39フィート (12 m) ほどで、船殻プレートに沿っていたようである。このことから、プレートを留めていた鉄のリベットが外れるか飛んで開いてしまい、狭い裂け目を作ってそこから水が入ってきたと想定される。事故後、ハーランド・アンド・ウルフのエンジニアがこの臆説を英国難破調査委員会に示唆したが、あまり顧みられなかったという[21]。タイタニックを発見したロバート・バラードは、船が小さな裂け目のために沈没したという説について、「大きな船がちょっとした裂け目のために沈没したということは誰も信じられなかったのだろう」と述べている[22]。ただし、船殻プレートのずれによる裂け目は1つの遠因に過ぎないという可能性はある。回収されたタイタニックの船殻プレートの一部は、衝突の衝撃で湾曲することなく破断したものと見られている[23]。
船殻のうち中央部の60%のプレートは軟鋼のリベットを3列に打ち込んで接合されていたが、船首と船尾のプレートには錬鉄のリベットが2列に打ち込まれていた。材料科学者であるティム・フッケ(Tim Foecke)とジェニファー・マッカーティ(Jennifer McCarty)によると、この2列のリベットは衝突の前ですら応力限界に近かった[24][25]。この「ベスト」と呼ばれる三号鉄リベットは多数のスラグ巻き込みを持つもので、このためもっとよく使われる「ベスト・ベスト」と呼ばれる四号鉄リベットよりも脆く、応力をかけられた時、極度の寒冷時には壊れやすくなる傾向がある[26][27]。しかしハーランド・アンド・ウルフを退職したアーキビストであるトム・マクラスキーは、タイタニックの姉妹船であるオリンピックは同じ鉄のリベットで打ちつけられていたにもかかわらず25年近く無事故で航行し、英国の巡洋艦との衝突を含めた大きな事故を生き延びていると指摘した[28]。オリンピックがUボートU103と船首で激突してU103が沈没した時にも、船尾のねじれと右舷側の船殻プレートの湾曲が生じたものの、船殻は原型を留めていた[28][29]。
喫水線より上では衝突の痕跡はほとんどなかった。一等船室のスチュワードは震動に気付いたが、プロペラスクリューのブレードが折れたせいだと思った。乗客の多くも衝撃や震動を感じたが、その原因はわからなかった[30]。衝突部位に最も近い一番低いデッキにいた者は、衝撃をもっと直接的に感じた。操機手のウォルター・ハーストは衝撃で目を覚ましたが、「誰もそんなに危険なことだと思わなかった」と回想している[31]。機関助手のジョージ・ケミシュも右舷側で衝突音を聞いたという[32]。
船はまもなく浸水し始め、やがて汲出可能速度の15倍にあたる1秒あたり7ロングトンの速度で水が入り込んできた[33]。二等機関士のJ・H・ヘスケスと主任火夫のフレデリック・バレットは第6ボイラー室に漏出してきた冷たい水に打たれ、部屋の防水扉が閉まる直前に逃げた[34]。これは機関部門のクルーにとって極めて危険な状況であった。ボイラーには高温・高圧の蒸気が充満しており、そこに冷たい水が入り込めば爆発する危険性もあった。火夫と機関助手はボイラーの鎮火と排気を命じられ、大量の蒸気を排気煙突から送り出した。この作業が終わる頃には、火夫たちは腰まで冷たい水に浸かっていた[35]。
タイタニックの下部デッキは16のコンパートメントに区画されており、それぞれ隣の区画から船の幅をカバーする15の隔壁で仕切られていた。隔壁は低いものでも水面の約3.4メートル上にあるEデッキの底面まで届いており、船首に最も近いふたつと船尾にもっとも近い6つの隔壁はさらにもうひとつ上のデッキまで達していた[36]。
隔壁は防水扉で閉鎖することができ、タンクトップデッキのエンジン室とボイラー室にはブリッジから遠隔操作できるドアがあり、約30秒で垂直に閉めることができたが、クルーが閉じ込められることのないよう、警告ベルと別の避難ルートが設置されていた。タンクトップの上の階層のオーロップデッキ、Fデッキ、Eデッキのドアは手動で水平に動かすことができ、上のデッキから操作することもできた[36]。
防水隔壁は水面より上まで伸びていたが、上部までぴったり塞がれていなかったため、製氷皿に入れた水が仕切りを越えて移動するように多数の区画が次々と浸水し、船首層タンク、前方の船倉3室、6番ボイラー室の合わせて5つの区画に被害を受けた。タイタニックは2区画までが浸水しても問題ないように設計されており、最悪4区画までは穴が開いても組み合わせによっては沈没することはなかった。しかし、5区画となると、水は隔壁の上部に達し、浸水を防げなくなる[36][37]。
スミス船長は自分の船室にいたときに衝撃を感じ、すぐにブリッジに出てきた。状況を知らされた船長は、タイタニックを建造したトーマス・アンドリューズを呼んだ。アンドリューズは船の最初の旅客航海を見守ることになっていたハーランド・アンド・ウルフのエンジニアの1人であった[38]。船は衝突の数分後には右舷に5度傾き、船首は2度下がっていた[39]。スミスとアンドリューズは階下に行き、前方の積み荷は持ちこたえているが、郵便室とスカッシュコートに浸水しており、第6ボイラー室は既に14フィート (4.3 m)もの水に飲み込まれていることに気付いた。水は第5ボイラー室に溢れ出ており[39]、ここにいたクルーたちは排水をしようと奮闘していた[40]。
衝突から45分で、少なくとも13,500ロングトン (13,700 t)の水が船に入ってきた。タイタニックの全ポンプの最大排水量は毎時1,700ロングトン (1,700 t)であり[41]バラストや船底のポンプでは対応できない量であった。アンドリューズは「船長に5つの区画が浸水した」と伝え、それゆえ「タイタニックは沈む運命にある」と言った。彼の予想では、もはや船は2時間以上持ち堪えられないだろうということであった[42]。
衝突から沈没までの間に、少なくとも35,000ロングトン (36,000 t)の水が入り込み、排水量が48,300ロングトン (49,100 t)からほぼ2倍の83,000ロングトン (84,000 t)以上になった[43]。浸水の進行状況は区画の形状によって異なり、一定速度で進んだわけではなく、船全体で一気に進んだわけでもなかった。最初に右舷方向に傾いてしまったのは、船底の通路を通って水が溢れていって右舷側のみが浸水したためであった[44]。通路が完全に水で塞がれると傾きは修正されていったが、のちに他方への浸水が進んだため船は左舷に10度近く傾いていくようになった[45]。
タイタニックは衝突後1時間で0度から4.5度まで前傾したが、次第に傾く速度が鈍くなり、5度程度になった[46]。そのため、救出までこのまま船が浮いていられるのではないかという希望を抱いた乗船者も多数いた。しかし、1時30分頃には前部の沈む速度が増し、船体は10度も傾いていた[45]。
注釈
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- 1 タイタニック号沈没事故とは
- 2 タイタニック号沈没事故の概要
- 3 1912年4月15日
- 4 その後
- 5 犠牲者と生存者
- 6 脚注
- 7 外部リンク
- タイタニック号沈没事故のページへのリンク