タイタニック号乗船まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/16 15:11 UTC 版)
「ジョン・ジェイコブ・アスター4世」の記事における「タイタニック号乗船まで」の解説
1864年7月13日にアメリカ合衆国・ニューヨーク・ラインベック(英語版)に生まれる。父はウィリアム・バックハウス・アスター2世(英語版)。母はその妻キャロライン・ウェブスター・アスター(旧姓シャーマーホーン)(Caroline Webster Schermerhorn)。アスター家の財を築いたジョン・ジェイコブ・アスターの曾孫にあたる。 セント・ポールズ・スクールを経て、1888年にハーバード大学を卒業した。 アメリカ国内にあるアスター家の莫大な所有地を管理し、幾多の銀行の頭取(Director)を務めた。2000年の土星と木星の旅を描くSF小説『他の世界の旅(英語版)』を著し、1894年に出版した。1897年にはニューヨークにホテルウォルドルフ=アストリアを建設した。 1894年から1896年にかけてニューヨーク州知事リーヴァイ・モートンのもとでスタッフも務め、「カーネル(Colonel)」の称号を受けた。 また、1898年の米西戦争では義勇軍を編成し、中佐(Lieutenant-Colonel)の階級を与えられてサンティアーゴ包囲戦(英語版)に参謀将校として参戦した。 1909年に先妻エヴァ(英語版)と離婚した。これは18歳の愛人マデリン・フォース(英語版)と再婚するためであり、実際に1911年にマデリンと再婚している。当時の上流階級では愛人を作ることは問題視されていなかったが、離婚は不名誉なこととされており、社交界の話題はその件で持ちきりになったという。 この醜聞の噂が広がったため、二人の結婚を認めて結婚式を司式してくれる牧師がなかなか見つけられなかった。高額の謝礼を提示しても何人もの牧師に拒否された。なんとかジョン・ランバート牧師が引き受けてくれ、1911年9月9日にアスター家の豪邸ビーチウッド(英語版)で挙式した。 世間の非難に滅入り、ほとぼりが冷めるまで長い新婚旅行に出ることにした。1912年1月24日にホワイト・スター・ラインの豪華客船オリンピック号(タイタニック号の姉妹船)に乗船してアメリカ国外へ出た。この新婚旅行には新妻マデリンの他、執事のヴィクター・ロビンズ、メイドのロザリー・ビドワ、看護婦キャロリン・エンドレス(マデリンが妊娠3か月だったため)の他、愛犬キティを伴った。またオリンピック号内でマーガレット・ブラウン(タイタニック号事件の後、「不沈のモリー」のあだ名で知られるようになる)と親しくなり、彼女もアスター夫妻の観光旅行に同行することになった。 イギリスの半植民地だったエジプトとフランス首都のパリで4か月ほど過ごした。しかし一緒に観光していたマーガレット・ブラウンが孫の病気を知ってタイタニック号でアメリカへ帰国することを決意すると、妻マデリンが「私たちも帰らない?赤ちゃんが船で産まれたら大変だし」と述べたので、アスターもタイタニックで帰国することにした。
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