サーサーン朝 名称

サーサーン朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/17 23:41 UTC 版)

名称

公式には、帝国はイラン帝国(パフラヴィー語: ērānšahrパルティア語: aryānšahr)として知られていた。この用語は、王が「私はイラン帝国の支配者である」(パフラヴィー語: ērānšahrxwadāyhēm、パルティア語: aryānšahrxwadāyahēm)というシャープール1世のゾロアスターのカアバの碑文英語版で最初に言及されている[7]

より一般的には、王朝はサーサーンにちなんで名付けられたという事実のために、歴史的・学術的な情報源ではサーサーン帝国として知られている。

日本語ではしばしばササン朝ササン朝ペルシアササン朝ペルシャとも呼ばれる[8]。単にペルシア帝国またはペルシャ帝国といった場合は、サーサーン朝か、数世紀前のアケメネス朝を指すことが多い。

歴史

起源

サーサーン朝の起源は不明な点が多い。サーサーン朝を開いたのはアルダシール1世だが、彼の出自は謎に包まれている。まず王朝の名に用いられるサーサーンが何者なのかもはっきりしない。サーサーンが王位に付いた証拠は現在まで確認されておらず、サーサーンに関する伝説でも、アケメネス朝の後裔とするものやパールスの王族であったとするもの、神官であったとするものなどがある。アルダシールの父親バーバク(パーパク)はパールス地方の支配権を持った王であり、サーサーン朝が実際に独立勢力となったのは彼の時代である。彼はサーサーンの息子とも遠い子孫ともいわれる。しかし、バーバクは間もなくパルティアと戦って敗れ、結局パルティアの宗主権下に収まった。そしてバーバクの跡を継いだアルダシール1世がサーサーン朝を偉大な帝国として興すことになる。

アルダシール1世は西暦224年に即位すると再びパルティアとの戦いに乗り出し、エリマイス王国などイラン高原諸国を次々制圧した。同年4月にホルミズダガンの戦い英語版でパルティア王アルタバヌス4世と戦って勝利を収め、「諸王の王」というアルサケス朝の称号を引き継いで使用した。この勝利によってパルティアの大貴族がアルダシール1世の覇権を承認した。230年にはメソポタミア全域を傘下に納め、ローマ帝国セウェルス朝の介入を排してアルメニアにまで覇権を及ぼした。東ではクシャーナ朝トゥーラーンの王達との戦いでも勝利を納め、彼らに自らの宗主権を承認させ、旧パルティア領の大半を支配下に置くことに成功した。

降服するウァレリアヌス帝らと騎乗のシャープール1世。ナクシェ・ロスタムの磨崖像より

以後サーサーン朝とローマ諸王朝(東ローマ諸王朝)はサーサーン朝の滅亡まで断続的に衝突を繰り返した。アルダシール1世の後継者シャープール1世は、対ローマ戦で戦果を挙げた。244年シリア地方の安全保障のためにサーサーン朝が占領していたニシビス英語版などの都市を奪回すべくゴルディアヌス3世がサーサーン朝へと侵攻した。これを迎え撃ったシャープール1世はマッシナの戦いでゴルディアヌス3世を戦死させた。そして、新皇帝フィリップスとの和平において莫大な賠償金を獲得した。後に皇帝ウァレリアヌスが再度サーサーン朝と戦端を開いたが、シャープール1世は260年エデッサの戦いで皇帝ヴァレリアヌスを捕虜にするという大戦果を収めた。シャープール1世は、馬上の自分に跪いて命乞いをするヴァレリアヌスの浮き彫りを作らせた。そしてこれ以後、「エーラーンとエーラーン外の諸王の王」(Šāhān-šāh Ērān ud Anērān)を号するようになった。

王位継承問題と弱体化

ナクシェ・ロスタムの「ゾロアスターのカアバ」en:Ka'ba-i Zartosht と呼ばれる遺跡。建物の用途は不明だが、下部壁面にカルティールによって書かれた長大なパフラヴィー語碑文がある

シャープール1世の死後、長男ホルミズド1世(ホルミズド・アルダシール)が即位したが、間もなく死去したので続いて次男バハラーム1世が即位した。バハラームの治世ではシャープール時代に祭司長となっていたカルティール(キルデール)が影響力を大幅に拡大した。絶大な権勢を振るった彼は王と同じように各地に碑文を残し、マニ教仏教キリスト教などの排斥を進めた。マニ教の経典によればカルティールは教祖マニの処刑に関わっていた。

バハラーム1世の死後、その弟ナルセと、息子バハラーム2世との間で不穏な気配が流れた。既にバハラーム1世の生前にバハラーム2世が後継に指名されていたが、ナルセはこれに激しく反発した。しかしカルティールや貴族の支持を得たバハラーム2世が即位した。バハラーム2世の治世にはホラーサーンの反乱や対ローマ敗戦などがあったが、ホラーサーンの反乱は鎮圧した。カルティールは尚も強い影響力を保持し続けた。バハラーム2世の死去後、反カルティール派の中小貴族から支援されたナルセはクーデターによって王位についた。ナルセ1世はメソポタミア西部やその他の州の奪回を目指して東ローマ軍と戦い、西メソポタミアを奪回。一方でアルメニアを喪失し、両国の間に和平協定が結ばれ、和平は40年間に渡って維持された。

統治体制の完成

ローマ皇帝ユリアヌスの東方遠征(363年

その後、王位はシャープール2世に引き継がれた。シャープール2世胎児の時から即位が決まっており、彼の母親の腹の上に王冠が戴せられ、兄たちは殺害・幽閉された。こうしてシャープール2世は生誕と同時に即位し、サーサーン朝で史上最長の在位期間を持つ王となった。少年時代は貴族達の傀儡として過ごしたが、長じるに順(したが)って実権を握った。シャープール2世はスサの反乱を速やかに鎮圧し、城壁を破壊。また前王の死後に領内に侵入していたアラブ人を撃退し、アラビア半島奥深くまで追撃して降伏させた。ローマ軍との戦いでは、363年にクテシフォンの戦い英語版で侵攻してきた皇帝ユリアヌスを戦死させ、アルメニア支配権を握った。東方のトゥーラーンではフン族の一派と思われる集団が侵入したが、シャープールは彼らを同盟者とすることに成功した。

対外的な成功を続けたシャープール2世は、領内統治に関しては数多くの都市を再建し各地に要塞・城壁を築いて外敵の侵入に備えた。また、ナルセ1世以来の宗教寛容策を捨て、ゾロアスター教の教会制度を整備し、キリスト教・マニ教への圧力を強めた。こうしてシャープールの治世では、サーサーン朝の統治体制が1つの完成を見たとされる。

中間期

ターク・イ・ブスタン小洞のシャープール3世(左)とその父シャープール2世(右)の像。像の左上、右上に各々の像主についてパフラヴィー語碑文が書かれている

バハラーム4世の治世に入るとフン族が来襲したが、バハラームは彼らと同盟を結んだ。バハラームの死後、ヤズデギルド1世が即位した。ヤズデギルド1世は「罪人」の異名を与えられているが、その真の理由は分かっていない。友人にキリスト教徒の医師がいたためにキリスト教に改宗したからだとも言われ、またヤズデギルド1世の許可の下で410年セレウキア公会議英語版が開かれたためとも言われているが、ヤズデギルド1世がキリスト教徒に特別寛容であったかどうかは判然としていない。

ヤズデギルド1世の死後、再び王位継承の争いが起き、短命な王が続いた後バハラーム5世が即位した。バハラーム5世はゾロアスター教聖職者の言を入れてキリスト教徒の弾圧を行ったため、多くのキリスト教徒が国外へ逃亡した。亡命者を巡ってサーサーン朝・東ローマ帝国テオドシウス朝間で交渉が持たれたが決裂。422年ローマ・サーサーン戦争英語版に敗北し領内におけるキリスト教徒の待遇改善を約束した。

エフタルの脅威

インド・エフタル ナプキ・マルカ英語版王(c.475-576)の貨幣用合金ドラクマ

425年に、バハラーム5世の治世に東方からエフタルの侵入があった。バハラーム5世はこれを抑えて中央アジア方面でサーサーン朝が勢力を拡大したが、以後エフタルがサーサーン朝の悩みの種となる。428年アルサケス朝アルメニア英語版が滅亡し、サーサーン朝アルメニア英語版が成立。

バハラーム5世の跡を継いだ息子のヤズデギルド2世は、東ローマ帝国のテオドシウス2世と紛争(東ローマ・サーサーン戦争 (440年))の後、441年に相互不可侵の約定を結んだ。443年に、キダーラ朝との戦いを始め、450年に勝利を納めた。国内において、アルメニア人のキリスト教徒にゾロアスター教へ改宗を迫り動乱が発生した。東ローマ帝国のテオドシウス朝がアルメニアを支援したが、451年にヤズデギルド2世がアヴァライルの戦い英語版で勝利しキリスト教の煽動者を処刑して支配を固めた。

ヤズデギルド2世の治世末期より、強大化したエフタルはサーサーン朝への干渉を強めた。ヤズデギルド2世は東部国境各地を転戦したが、決定的打撃を与えることなく457年に世を去った。彼の二人の息子、ホルミズドとペーローズ1世は王位を巡って激しく争い、ペーローズはエフタルの支援で帝位に就いた。

458年にサーサーン朝アルメニアでゾロアスター教への改宗を拒むマミコニアン家英語版の王女が夫Varskenに殺害された。エフタルの攻撃を受けサーサーン朝が東方に兵を振り向けていたため、イベリア王国の王ヴァフタング1世がこの争いに介入してVarskenも殺された。ペーローズ1世はアードゥル・グシュナースプ英語版を派遣したが、ヴァハン・マミコニアン英語版が蜂起してヴァフタングに合流。アードゥル・グシュナースプは再攻撃を試みたが敗れて殺された。

ペーローズ1世はエフタルの影響力を排除すべく469年にエフタルを攻めたが、敗れて捕虜となり、息子のカワードを人質に差し出しエフタルに対する莫大な貢納を納める盟約を結んだ。旱魃により財政事情は逼迫、484年に再度エフタルを攻めたが敗死した(ヘラートの戦い英語版)。485年にはヴァハン・マミコニアンがサーサーン朝アルメニアのマルズバーンに指名される。

488年に、人質に出ていたカワード1世(在位:488年496年498年-531年)がエフタルの庇護の下で帰国し、帝位に就いた。しかし、マズダク教の扱いを巡り貴族達と対立したため幽閉されて廃位された。幽閉されたカワード1世は逃亡してエフタルの下へ逃れ、エフタルの支援を受け再び首都に乗り込み、498年に復位(重祚)した。同年、ネストリウス派総主教がセレウキア-クテシフォン英語版に立てられた。カワード1世は、帝位継承に際して貴族の干渉を受けないことを目指し、後継者を息子のホスロー1世とした。

502年に、カワード1世はエフタルへの貢納費の捻出のため東ローマ領へ侵攻し(アナスタシア戦争)、領土を奪うとともに領内各地の反乱を鎮圧した。この戦いがen:Byzantine–Sassanid Wars(502年–628年)の始まりであった。 526年に、イベリア戦争(526年–532年)が、東ローマ帝国・ラフム朝英語版連合軍との間で行なわれた。530年Battle of DaraBattle of Satala。531年、Battle of Callinicum

最盛期

カワード1世の後継者ホスロー1世(在位:531年-579年)の治世がサーサーン朝の最盛期と称される。ホスロー1世は父の政策を継承して大貴族の影響力の排除を進め、またマズダク教制して社会秩序を回復させ、軍制改革にも取り組んだ。とりわけ中小貴族の没落を回避するため、軍備費の自己負担を廃止して武器を官給とした。一方、宗教政策にも力を入れ、末端にも聖火の拝礼を奨めるなど神殿組織の再編を試みた。

一方、東ローマ帝国ではキリスト教学の発展に伴う異教排除が進み、529年にはユスティニアヌス1世によってアテネアカデミアが閉鎖された。ゆえに失業した学者が数多くサーサーン朝に移住し、ホスローは彼らのための施設を作って受け入れた。それ以前に、エジプトでも415年ヒュパティアキリスト教徒により殺され、エジプトからも学者が数多くサーサーン朝に亡命した。この結果、ギリシア語ラテン語)の文献が多数翻訳された。

ホスロー1世の狩猟図を描いた銀盤

ホスロー1世からホスロー2世の時代にかけて、各地の様々な文献や翻訳文献を宮廷の図書館に収蔵させたと伝えられている。宗教関係では『アヴェスター』などのゾロアスター教の聖典類も書籍化され、この注釈など各種パフラヴィー語文書(『ヤシュト』)もこの時期に執筆された。『アヴェスター』書写のためアヴェスター文字も既存のパフラヴィー文字を改良して創制され、現存するゾロアスター教文献の基礎はこの時期に作成されたと考えられる。現存しないが、後の『シャー・ナーメ』の前身、古代からサーサーン朝時代まで続く歴史書『フワダーイ・ナーマグ英語版』(Χwadāy Nāmag)は、この頃に編纂されたと思われる。[9]

タバリーなどの後代の記録では、ホスロー1世の時代から(主にホスロー2世の時代にかけて)天文・医学・自然科学などに関する大量のパフラヴィー語(中期ペルシア語)訳のギリシア諸文献が宮廷図書館に収蔵されたことが伝えられており、さらに『パンチャ・タントラ』などのインド方面のサンスクリット諸文献も積極的に移入・翻訳されたという(この時期のインド方面からの文物の移入については、例えば、チェスがインドからサーサーン朝へ移入された経緯が述べられているパフラヴィー語のシャトランジの歴史物語『シャトランジ解き明かしの書ペルシア語版』(チャトラング・ナーマグ、Chatrang-namak)もホスローと彼に仕えた大臣ブズルグミフル・イ・ボーフタガーン英語版ペルシア語: بُزُرْگْمِهْر بُخْتَگان‎、転写: Bozorgmehr-e Bokhtagan)の話である)。

5世紀前後からオマーンイエメンといったアラビア半島へ遠征や鉱山開発などのため入植を行わせており、イラク南部のラフム朝英語版などの周辺のアラブ系王朝も傘下に置いた。

ホスロー1世は、ユスティニアヌス1世の西方経略の隙に乗じて圧力を掛け貢納金を課し、また度々東ローマ領へ侵攻して賠償金を得た。ユスティニアヌス朝との間に50年間の休戦を結ぶと、558年に東方で影響力を拡大するエフタルに対して突厥西方(現イリ)の室点蜜と同盟を結び攻撃を仕掛け、長年の懸案だったエフタルを滅亡させた。一方でエフタルの故地を襲った突厥との友好関係を継続すべく婚姻外交を推し進めたが、588年第一次ペルソ・テュルク戦争英語版で対立に至り、結局エフタルを滅ぼしたものの領土拡張は一部に留まった。569年からビザンチンと西突厥は同盟関係となっていたことから、ビザンチン・サーサーン戦争 (572年-591年)英語版を引き起こした。

滅亡

600年前後のサーサーン朝周辺

ホスロー1世の孫ホスロー2世は即位直後に、東方でバフラーム・チョービーン英語版の反乱が発生したため東ローマ国境付近まで逃走し、王位は簒奪された。東ローマのマウリキウスの援助で反乱を鎮圧したが、602年に東ローマの政変でマウリキウスが殺されフォカスが帝位を僭称すると、仇討を掲げて東ローマ・サーサーン戦争を開始、フォカスは初戦で大勝を収めたが、610年にクーデターでヘラクレイオスが帝位に即き、ヘラクレイオス朝を興した。

連年のホスロー2世率いるサーサーン朝軍の侵攻によって、613年にはシリアのダマスカスシリア英語版、翌614年には聖地エルサレムを占領した(エルサレム包囲戦英語版)。この時エルサレムから「真なる十字架」を持ち帰ったという。

615年エジプト征服英語版が始まり、619年第二次ペルソ・テュルク戦争英語版が起こった。621年にサーサーン朝はエジプト全土を占領し、アナトリアも占領して、アケメネス朝旧領域を支配地に組み入れた。一時はコンスタンティノープルも包囲し、ヘラクレイオス自身も故地カルタゴ逃亡を計ろうとした。

しかし、622年カッパドキアの戦い英語版でヘラクレイオスが反撃へ転じ、被占領地を避け黒海東南部沿岸から直接中枢部メソポタミアへ侵入した。サーサーン朝はアヴァールと共同でヘラクレイオス不在の首都コンスタンティノポリスを包囲し、呼応して第三次ペルソ・テュルク戦争も起こったが、撃退される(コンスタンティノープル包囲戦)。

627年に、サーサーン朝軍はメソポタミアに侵攻したヘラクレイオス親征の東ローマ軍にニネヴェの戦いで敗北し、クテシフォン近郊まで進撃された。ホスロー2世の長年に渡る戦争と内政を顧みない統治で疲弊を招いていた結果、628年にクテシフォンで反乱が起こりホスロー2世は息子のカワード2世に裏切られ殺された。

ホスロー2世を屈服させるヘラクレイオス1世。(十字架に描かれた七宝製画像。12世紀後半)

カワード2世は即位するとヘラクレイオス朝との関係修復のため聖十字架を返還したが、程なく病死して王位継承の内戦が発生した(サーサーン内乱)。長期に渡る混乱の末に、29代目で最後の王ヤズデギルド3世が即位したが、サーサーン朝の国力は内乱やイラク南部におけるディジュラフラート河とその支流の大洪水に伴う流路変更と農業適地の消失(湿地化の進行)により消耗した。そこに新興の宗教イスラム教が勃興しサーサーン朝は最期の時を迎えることになる。

アラビア半島に勃興したイスラム共同体は勢力を拡大し東ローマ・サーサーン領へ侵入。633年ハーリド・イブン=アル=ワリード率いるイスラム軍がイラク南部のサワード地方に侵攻(イスラーム教徒のペルシア征服)、現地のサーサーン軍は敗れ、サワード地方の都市の多くは降伏勧告に応じて開城した。翌634年にハーリドがシリア戦線に去ると、イスラム軍は統率を失い、進撃は停滞、ヤズデギルド3世は各所でこれらを破り、一時、サーサーン朝によるイラク防衛は成功するかに見えた[10]。しかし、同年のアブー=バクルの死によるカリフ正統カリフ)のウマル・イブン・ハッターブへの交代と共に、ペルシア戦線におけるイスラム軍の指揮系統は一新され、636年カーディシーヤの戦いで敗北、首都クテシフォンが包囲されるに及んでヤズデギルド3世は逃亡、サーサーン朝領では飢饉・疫病が蔓延したという。クテシフォン北東のジャルーラーウでザグロス山脈周辺から軍を召集して反撃を試みたが、イスラム軍の攻撃を受け大敗した。

641年にヤズデギルド3世はライクーミス英語版エスファハーンハマダーンなどイラン高原西部から兵を徴集して6万とも10万とも言われる大軍を編成、対するウマルも軍営都市のバスラクーファから軍勢を招集する。

642年にニハーヴァンドの戦いでサーサーン軍とイスラム軍は会戦し、サーサーン軍は敗れた。敗戦後はエスファハーンからパールス州のイスタフルへ逃れたが、エスファハーンも643年から644年にかけてイスラム軍に制圧された。ヤズデギルド3世は再起を計って東方へ逃れケルマーンスィースターンへ赴くが、現地辺境総督(マルズバーン)の反感を買って北へ逃れざるを得なくなり、ホラーサーンのメルヴへ逃れた。しかし、651年にヤズデギルド3世はメルヴ総督マーフワイフの裏切りで殺害され、サーサーン朝は完全に崩壊した。東方に遠征駐屯していた王子ペーローズとその軍はその地に留まり反撃の機会を窺い、さらにの助勢を求め、自らが長安まで赴いて亡命政府を設立したが、成功することはなかった。『旧唐書』には大暦6年(771年)に唐に真珠を献上した記録があり、このころまでは亡命政府は活動していたようである。

サーサーン朝の滅亡は、ムスリムにとってはイスラム共同体(帝国)が世界帝国へ発展する契機となった栄光の歴史として記憶された。

後世への影響

後期サーサーン朝では官僚的中央集権化が進み、その諸制度は後のアッバース朝などイスラム帝国に引き継がれた。また、後代にはサーサーン朝最後の君主ヤズデギルド3世の娘シャフル・バーヌーがシーア派の第3代イマームフサインの妻の一人となり、第4代イマーム・アリー・ザイヌルアービディーンの生母となった、といったものやサファヴィー朝の宗祖サイイド・サフィーユッディーン・イスハーク1252/3年 - 1334年)がサーサーン王家の血を引いているなどの伝承が生まれた。

特にアッバース朝が衰退をはじめる10世紀以降もカスピ海南岸の地域ではズィヤール朝マーザンダラーンバーワンド家英語版フランス語版Bawandids8世紀-1349年)などサーサーン朝時代まで遡る名家が存在しており、この地域からイラン的な習俗を強く持ったブワイフ朝が勃興しイラクやイラン高原全域を席巻した。他の地域同様、アラブ征服時代以降にイラン方面まで進出したイスラム教の預言者ムハンマドの一族であるハーシム家などの後にサイイドと呼ばれる人々と婚姻を結んで来た歴史を持つ。

自国史の編纂

公正なるヌーシルラワーンことホスロー1世が大臣ブズルグミフルのために宴席を設ける。(イルハン朝時代の『シャー・ナーメ』の1写本。1330年作成)

サーサーン朝の歴史についてはアッバース朝時代のウラマーであるタバリーがアラビア語で著した『諸使徒と諸王の歴史』収録の記事が現存する「通史」としては最古であり、他にはサーサーン朝の歴代君主が残した碑文群やマニ教文書、パフラヴィー語による行政文書などの史料群、パフラヴィー語・アルメニア語シリア語・ギリシア語・ラテン語などの年代記・通貨などにより歴史・実態・文化などが研究されている。

パルティア語やパフラヴィー文字碑文などはサーサーン朝草創期から存在しているが、現存するゾロアスター教文献などによると、古代イラン世界では文字は音声を物質化した賎しむべきものと見なされていたようで、古代からの伝承は神官(マギ)などが口伝で代々受継がれていくものとされていたという。しかしながら、ホスロー1世の時代から世界中の知識を集積しようというイデオロギー的な動きが見られ、パフラヴィー文字を改良したアヴェスター文字の発明によりゾロアスター教文献書籍化の契機が生まれたと考えられている。これに関連して古代からサーサーン朝時代までの歴史も編纂する動きがあったようで、歴史書『フワダーイ・ナーマグ』(Χwadāy Nāmag)が製作されたと伝えられている。これが、アッバース朝時代のタバリーなどのサーサーン朝史の原典となり、さらに後代のフェルドウスィーなどが著した歴史叙事詩『シャー・ナーメ』のルーツとなった。

そのため、現在のイラン民族にとって、サーサーン朝が直接の国家的祖先と見なされている。これは近代化の影響だけでなく、そもそもサーサーン朝時代の歴史などを編纂し始めた王朝末期やアッバース朝時代の頃には、すでにアケメネス朝時代は神話化・伝説化し、セレウコス朝時代・パルティア時代も殆ど忘れ去られていた状態で、過去への歴史的憧憬は神話時代を除くとペルシア文学ではサーサーン朝後期のホスロー1世の時代が特に賞揚されてきた伝統によっている。特にホスロー1世は「公正なるアヌーシルワーン」(「不滅なる霊魂」を意味する中期ペルシア語、アノーシャグ・ルワーン anōšag ruwān に由来するアラビア語の訛音)とも呼ばれ、統治者・君主の模範として仰がれた。ペルシア語の通用したアナトリア・イラン高原以東の地域では、フェルドウスィーの『シャー・ナーメ』の他に、ホスロー2世を題材にしたニザーミーの『ホスローとシーリーン』などペルシア語文芸とともにサーサーン朝時代についての知識が受容された。


  1. ^ Chronique d'Agathias.
  2. ^ Will Durant, Age of Faith, (Simon and Schuster, 1950), 150; Repaying its debt, Sasanian art exported it forms and motives eastward into India, Turkestan, and China, westward into Syria, Asia Minor, Constantinople, the Balkans, Egypt, and Spain..
  3. ^ "Transoxiana 04: Sasanians in Africa". Transoxiana.com.ar. Retrieved 16 December 2013.
  4. ^ Sarfaraz, pp. 329–330
  5. ^ "Iransaga: The art of Sassanians". Artarena.force9.co.uk. Retrieved 16 December 2013.
  6. ^ Abdolhossein Zarinkoob: Ruzgaran: tarikh-i Iran az aghz ta saqut saltnat Pahlvi, p. 305
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  8. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ササン朝とは”. コトバンク. 2018年1月3日閲覧。
  9. ^ ディミトリ・グタス『ギリシア思想とアラビア文化―初期アッバース朝の翻訳運動』(山本啓二 訳)勁草書房, 2002/12/20.
  10. ^ 後藤明、吉成勇編『世界「戦史」総覧』新人物往来社、1998年、pp.46-47
  11. ^ Arthur Christensen. Contes persans en langue populaire. Copenhagen: Andr. Fred. Høst & Son, 1918.
  12. ^ a b 青木健『新ゾロアスター教史』(刀水書房、2019年)142-144ページ。
  13. ^ a b c 前掲『新ゾロアスター教史』144-157ページ。
  14. ^ 前掲『新ゾロアスター教史』178ページ。
  15. ^ a b c d e f g h 前掲『新ゾロアスター教史』157-168ページ。
  16. ^ 前掲『新ゾロアスター教史』157-168ページ。






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