サーサーン朝 宗教

サーサーン朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/17 23:41 UTC 版)

宗教

サーサーン朝時代は、西からキリスト教ネストリウス派など)、東から仏教が伝来。サーサーン朝はインドクシャーナ朝ローマ帝国突厥など当時の大国と係わりがあり、ユーラシア西部の文明の一大中心地であり十字路でもあった。このような素地の中で、キリスト教、ゾロアスター教、仏教などの世界宗教を総合するマニ教が誕生した。

ゾロアスター教

サーサーン朝の国教

ズルワーン教

ズルワーン教はゾロアスター教に関連する宗教。善と悪は時間の神ズルワーンから生まれたと説いた[12]

紀元前4世紀ごろの小アジアシリアメソポタミア一帯で信仰されていたとみられる。サーサーン朝成立から5世紀にかけてギリシア語ラテン語アルメニア語シリア語アラビア語などの外国語資料が豊富に残っている。また、マニ教の教祖マニも最高神としてズルワーンに言及している。一方9~10世紀にかけてのゾロアスター教パフラヴィー語文献ではズルワーン主義に関する資料が残されておらず、後世に伝わる二元論的なゾロアスター教との関係は分かっていない。ズルワーン教に関しては以下のような説がある[12]

  • 古代イラン神話の一形態 - ヘブライ大学教授シャーケードなど
  • サーサーン朝初期~中期の保守本流 - コパンハーゲン大学教授アルトゥール・クリステンセンなど
  • ゾロアスター教の異端 - メアリー・ボイスなど

マニ教

バハラーム1世に召され、自ら著述した画集教典を王に差し出す「絵師マニ」(16世紀ミール・アリー・シール・ナヴァーイー作)

マニ教は、キリスト教・ゾロアスター教・仏教などの諸宗教を混合した世界宗教。教祖はマニ(216年頃 - 274年?)[13]

マニはアルサケス家の血を引くパルティア人で父と共にユダヤ教系キリスト教のグノーシス主義洗礼教団エルカサイ派に所属していた。24歳の時にエルカサイ派を離脱した彼は、父親や仲間たちと共にメソポタミア・メディア・インドなどを行き巡り、キリスト教・ゾロアスター教・仏教など諸宗教を混合した新興世界宗教(後にマニ教と呼ばれる)を開く。サーサーン家の人物まで改宗させた彼は、シャープール1世にも謁見し、廷臣として取り立てられた。そして自ら聖典を書き記し、教団の組織化と伝道活動に従事した。しかしシャープールの死後、ゾロアスター教神官カルティールが台頭し、マニは処刑されてしまう[13]

教祖の死後、マール・スィースィンが跡を継ぎ、アラブ人伝道にも成功するが、彼自身は殺されてしまう。その後、マニ教会の資料はほとんど残されておらず、キリスト教会に地盤を奪われたとみられている[13]

マズダク教

マズダク教はカワード1世の宰相マズダクにより提唱された宗教。カワードは平等を説くマズダク教を利用してゾロアスター教神官団の抑え込もうとしたが、それにより混乱を深めた[14]

ユダヤ教

キリスト教

19世紀ペルシアのアッシリア人(ネストリウス派)達

サーサーン朝に広まったキリスト教は、ローマ帝国で広がったヘレニズム的なキリスト教とは一線を画すシリア系キリスト教であった。彼らはイエスが使った言語であるアラム語シリア語)を用い、パルティア時代からローマ帝国におけるキリスト教の文化的中心都市エデッサを起点に東方との交流を行っていた[15]

サーサーン朝にキリスト教が広まるきっかけとなったのは、260年にサーサーン朝がエデッサを占領してからである。またサーサーン朝に捕らえられたローマ兵にもキリスト教徒がおり、彼らを通して国内にキリスト教が広まるようになった。なお、キリスト教徒は一枚岩ではなく、文化的背景によって以下のグループに分かれ、それぞれ緊張関係にあった[15]

  • クリスティヤーン - ギリシア文化圏のキリスト教徒。ローマ帝国のキリスト教主流派
  • ナズラーイ - シリア文化圏のキリスト教徒。
  • アーリア人のキリスト教徒

なお、当初のサーサーン朝はローマ帝国で迫害されるキリスト教に好意的で、布教は順調に進んだ。4世紀にはセレウキア-クテシフォンに府主教座が設けられた[15]

313年にローマ帝国でのキリスト教公認が行われると、サーサーン朝はキリスト教の迫害(339年-379年)に転じる。当時はアーリア人の間でもキリスト教が広まっており、ゾロアスター教を基盤とするサーサーン朝にとって死活問題であった。シャープール2世によって主導された弾圧はキリスト教徒の反乱と多くの殉教者を出した[15]

(参考)10世紀における東方教会の教会管区

ヤズデギルド1世の代になると、東ローマ帝国との関係改善のためにキリスト教徒の迫害が停止された。また、教会網が整備され、以下の6大教会が成立した[15]

  • セレウキア-クテシフォン
  • ベート・ラパト
  • ニシビス
  • プラット・マイシャーン
  • アルベラ
  • カルカード・ベート・スローク

しかし、ヤズデギルドの治世末期にはキリスト教会との衝突や、ゾロアスター教徒のキリスト教改宗が相次ぎ、再び迫害策(420年-484年)がとられた。また、ローマ帝国で異端とされた非カルケドン派合性論派)とネストリウス派がサーサーン朝のキリスト教界に入り込み、事態はより複雑化した。5世紀半ばにはクテシフォンの府主教座が非カルケドン派に交代した。また、エデッサを追われたネストリウス派がニシビスに拠点を移した。ネストリウス派はローマ帝国と敵対する別種のキリスト教と解釈され、サーサーン朝と結びつき、クテシフォンの府主教座を獲得した(逆に非カルケドン派の府主教は処刑に追い込まれた)。ネストリウス派はサーサーン朝に公認された唯一のキリスト教として勢力を拡大し、クテシフォンの府主教座は東方総主教カトリコス)の名称を用いるようになった[15]

ネストリウス派はニシビス一帯に神学校修道院を整備したが、修道院制度と禁欲主義は元ゾロアスター教徒のアーリア人キリスト教徒たちにはなじまず、486年にはいったん廃止された。しかし文化的基盤であった修道院をなくすことはキリスト教会の文化的活力を低下させたため、シリア系キリスト教徒から反発を受けた。そのため6世紀には修道院制度が復活し、ネストリウス派神学が確立されていった[15]

キリスト教がサーサーン朝の領域に広まった理由として次の理由が挙げられる[15]

  • 書物文化の発達 - キリスト教会はユダヤ人ギリシア人の書物文化を受け継いでいたのに対し、ゾロアスター教神官団には碑文以外の書物文化が乏しく、6世紀まではセム系文字の借用に甘んじていた
  • 聖典の確立 - シリア語訳『ディアテッサロン』(2世紀)、パフラヴィー語訳『詩編』(3~4世紀)、シリア語訳『聖書』(5世紀)など、キリスト教会は聖典翻訳を積極的に行っていた。特にパフラヴィー語訳『詩編』は新たに発明された書物用のパフラヴィー文字をもとに書かれており(それまでパフラヴィー文字は碑文用のものしかなかった)、6世紀まで口伝伝承しか持たなかったゾロアスター教神官団を圧倒していた(#自国史の編纂参考)。
  • ヘレニズムの知的遺産 - キリスト教会はギリシア人の学問の成果を受け継いでおり、神学校・修道院でそれらを継承・発展させていった。そのため医者・学者・占星術師など知的職業に占めるキリスト教徒の割合が高くなり、これらの層からも宣教師が輩出された。なお、初期イスラム文化もキリスト教徒によるヘレニズム文化のシリア語訳に頼っていた。

これらの理由からキリスト教会はゾロアスター教神官団に対して知的優位に立つことができた。ホスロー1世のもとでゾロアスター教にギリシア哲学インド哲学が取り入れられたり、キリスト教パフレヴィー文字を参考にアヴェスター文字が発明され、口伝『アヴェスター』とそのパフラヴィー語注釈『ザンド』が書籍化されたのも、キリスト教会に対抗するためであったとされている[16]


  1. ^ Chronique d'Agathias.
  2. ^ Will Durant, Age of Faith, (Simon and Schuster, 1950), 150; Repaying its debt, Sasanian art exported it forms and motives eastward into India, Turkestan, and China, westward into Syria, Asia Minor, Constantinople, the Balkans, Egypt, and Spain..
  3. ^ "Transoxiana 04: Sasanians in Africa". Transoxiana.com.ar. Retrieved 16 December 2013.
  4. ^ Sarfaraz, pp. 329–330
  5. ^ "Iransaga: The art of Sassanians". Artarena.force9.co.uk. Retrieved 16 December 2013.
  6. ^ Abdolhossein Zarinkoob: Ruzgaran: tarikh-i Iran az aghz ta saqut saltnat Pahlvi, p. 305
  7. ^ ĒRĀN, ĒRĀNŠAHR – Encyclopaedia Iranica”. www.iranicaonline.org. 2019年11月9日閲覧。
  8. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ササン朝とは”. コトバンク. 2018年1月3日閲覧。
  9. ^ ディミトリ・グタス『ギリシア思想とアラビア文化―初期アッバース朝の翻訳運動』(山本啓二 訳)勁草書房, 2002/12/20.
  10. ^ 後藤明、吉成勇編『世界「戦史」総覧』新人物往来社、1998年、pp.46-47
  11. ^ Arthur Christensen. Contes persans en langue populaire. Copenhagen: Andr. Fred. Høst & Son, 1918.
  12. ^ a b 青木健『新ゾロアスター教史』(刀水書房、2019年)142-144ページ。
  13. ^ a b c 前掲『新ゾロアスター教史』144-157ページ。
  14. ^ 前掲『新ゾロアスター教史』178ページ。
  15. ^ a b c d e f g h 前掲『新ゾロアスター教史』157-168ページ。
  16. ^ 前掲『新ゾロアスター教史』157-168ページ。






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