サーサーン朝 サーサーン朝の概要

サーサーン朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/17 23:41 UTC 版)

サーサーン朝

𐭠𐭩𐭥𐭠𐭭𐭱𐭲𐭥𐭩
224年 - 651年



西暦620年頃のサーサーン朝の最大版図
公用語 パフラヴィー語
パルティア語準公用語
ギリシャ語コイネー
宗教 ゾロアスター教(公式)
ズルワーン教(公式)
マニ教
仏教
キリスト教ネストリウス派
ユダヤ教
マズダク教
首都 イスタフル224年 - 226年
クテシフォン(226年 - 642年
シャーハンシャー諸王の王
226年 - 241年 アルダシール1世
241年 - 272年シャープール1世
309年 - 379年シャープール2世
531年 - 579年ホスロー1世
632年 - 651年ヤズデギルド3世
面積
550年3,500,000km²
620年7,400,000km²
人口
7世紀25,000,000人
変遷
建国 226年4月28日
エデッサの戦いローマ帝国に勝利する260年
ホスロー2世治世下でサーサーン朝が最大版図を実現620年
ニハーヴァンドの戦いで事実上崩壊する642年
イスラム帝国によって滅亡651年
通貨ディルハム銀貨
現在 イラン
イラク
クウェート
アフガニスタン
パキスタン
トルクメニスタン
ウズベキスタン
アゼルバイジャン
アルメニア
ジョージア
サウジアラビア
バーレーン
カタール
アラブ首長国連邦
アゼルバイジャン
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アルメニア王国
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東ローマ帝国
正統カリフ
クシャーノ・サーサーン朝
イベリア公国
ダブワイド朝
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イランの歴史
イランの先史時代英語版
原エラム
エラム
ジーロフト文化英語版
マンナエ
メディア王国
ペルシア帝国
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セレウコス朝
アルサケス朝
サーサーン朝
イスラームの征服
ウマイヤ朝
アッバース朝
ターヒル朝
サッファール朝
サーマーン朝
ズィヤール朝
ブワイフ朝 ガズナ朝
セルジューク朝 ゴール朝
ホラズム・シャー朝
イルハン朝
ムザッファル朝 ティムール朝
黒羊朝 白羊朝
サファヴィー朝
アフシャール朝
ザンド朝
ガージャール朝
パフラヴィー朝
イスラーム共和国

サーサーン朝は、数世紀前のアケメネス朝と同じくイラン高原ファールス地方から勃興した勢力で、その支配領域はエーラーン・シャフル(Ērān Šahr)と呼ばれ、おおよそアナトリア東部、アルメニアからアムダリア川西岸、アフガニスタントルクメニスタン、果てにウズベキスタン周辺まで及んだ。更に最大版図は現在のイランとイラクのすべてを包含し、地中海東岸(エジプトを含む)からパキスタンまで、そしてアラビア南部の一部からコーカサス中央アジアまで広がっていた。

特に始祖アルダフシール(アルダシール1世)自身がゾロアスター教神官階層から台頭したこともあり、様々な変遷はあったもののゾロアスター教と強い結びつきを持った帝国であった。

サーサーン朝の支配の時代はイランの歴史の最高点と考えられており[1]、多くの点でイスラム教徒の征服とその後のイスラム化の前の古代イラン文化の最盛期であった。サーサーン朝は、多様な信仰と文化を容認し、複雑で中央集権化された官僚制度を発展させた。また帝国の支配の正当化と統一力としてゾロアスター教を活性化させ、壮大な記念碑や公共事業を建設し、文化的および教育的機関を優遇した。サーサーン朝の文化的影響力は、西ヨーロッパ[2]アフリカ [3]中国インド[4]を含む領土の境界をはるかに超えて広がり、ヨーロッパとアジアの中世美術の形成に大きな影響を与えた[5]。ペルシャ文化はイスラム文化の多くの基礎となり、イスラム世界全体の芸術、建築、音楽、文学、哲学に影響を与えた[6]


  1. ^ Chronique d'Agathias.
  2. ^ Will Durant, Age of Faith, (Simon and Schuster, 1950), 150; Repaying its debt, Sasanian art exported it forms and motives eastward into India, Turkestan, and China, westward into Syria, Asia Minor, Constantinople, the Balkans, Egypt, and Spain..
  3. ^ "Transoxiana 04: Sasanians in Africa". Transoxiana.com.ar. Retrieved 16 December 2013.
  4. ^ Sarfaraz, pp. 329–330
  5. ^ "Iransaga: The art of Sassanians". Artarena.force9.co.uk. Retrieved 16 December 2013.
  6. ^ Abdolhossein Zarinkoob: Ruzgaran: tarikh-i Iran az aghz ta saqut saltnat Pahlvi, p. 305
  7. ^ ĒRĀN, ĒRĀNŠAHR – Encyclopaedia Iranica”. www.iranicaonline.org. 2019年11月9日閲覧。
  8. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ササン朝とは”. コトバンク. 2018年1月3日閲覧。
  9. ^ ディミトリ・グタス『ギリシア思想とアラビア文化―初期アッバース朝の翻訳運動』(山本啓二 訳)勁草書房, 2002/12/20.
  10. ^ 後藤明、吉成勇編『世界「戦史」総覧』新人物往来社、1998年、pp.46-47
  11. ^ Arthur Christensen. Contes persans en langue populaire. Copenhagen: Andr. Fred. Høst & Son, 1918.
  12. ^ a b 青木健『新ゾロアスター教史』(刀水書房、2019年)142-144ページ。
  13. ^ a b c 前掲『新ゾロアスター教史』144-157ページ。
  14. ^ 前掲『新ゾロアスター教史』178ページ。
  15. ^ a b c d e f g h 前掲『新ゾロアスター教史』157-168ページ。
  16. ^ 前掲『新ゾロアスター教史』157-168ページ。


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