コンスタンティン・チェルネンコ
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最高指導者として
書記長に就任
1984年2月9日にアンドロポフが死去すると葬儀委員長に就任。2月13日の党中央委員会臨時総会において書記長に選出され、急激な変化を嫌う既成勢力を背景とするチェルネンコが後継者となった。同年4月からは、国家元首である最高会議幹部会議長を兼務することになった。
しかし、就任当初から健康状態がすぐれず、赤の広場で執り行われたアンドロポフの国葬の中では、レーニン廟上の講壇で追悼演説を行う際に階段の登り降りをすることもままならず、新設されたエスカレーターを介し、2人の護衛の助けを借りて登降した。また、国歌演奏の下でアンドロポフの遺体が埋葬される際にも、他の政治局員が居並んで敬礼する中、チェルネンコは満足に敬礼することもできず、途中で手を下ろしてしまう場面が見受けられた。同葬儀に参列したイギリスの社民党党首で医師でもあったデイヴィッド・オーウェンは、「チェルネンコ氏は肺気腫を患っていると思われる」との見解を示した。皮肉にも1年後のチェルネンコの死によって、オーウェンの「診断」の正しさが証明される格好になった。
内政・党運営
チェルネンコは就任後、ブレジネフ時代後期の政策への回帰を表明した。しかし彼は同時に、技術・専門教育を重視する教育改革やプロパガンダ改革に着手したほか、アンドロポフ政権で導入された企業の自主性拡大の実験も対象を拡大させて継続した[2]。更にチェルネンコが自らの政策として努力した形跡が窺われるのは、イデオロギー政策であり、規律強化・愛国心高揚・ブルジョア文化の排撃等のキャンペーンが展開され、また次の第27回党大会を目ざして、党綱領及び党規約の改正にも自らのイニシアティブを発揮した。
人事面では、アンドロポフが後継指名していたミハイル・ゴルバチョフを党ナンバー2たる第二書記に任命するなど、改革派への配慮も見せた。ゴルバチョフはチェルネンコの下でイデオロギー、農業、党組織及び経済計画の広範かつ重要な分野を管掌した。加えて、重要人事を断行する力はないと思われていたが、1984年9月6日にソ連軍の制服組トップで、党に対し批判がましい言動を繰り返していた参謀総長・ソ連邦元帥のニコライ・オガルコフを電撃的に解任し、後任の参謀総長にセルゲイ・アフロメーエフを任命し、世界を驚かせた。ただしオガルコフの解任については、チェルネンコの夏期休暇明け翌日の政治局会議で尚且つグリゴリー・ロマノフの海外出張中に決定されたという状況から、ゴルバチョフなどの非チェルネンコ派によるチェルネンコ人脈の切り崩しだという見方も存在する。
この他にアンドロポフ政権による綱紀粛正路線の継承を明らかにするため、汚職の廉で内相・党中央委員から解任されていたニコライ・シチョーロコフの軍階級剥奪に踏み切った[3]。
外交政策
チェルネンコ政権はデタントの再構築という課題を引き継いだ。この課題に対しソ連は当初、軍備管理問題で強硬な姿勢をとることにより西側諸国に圧力をかけ、米欧分断や西側各国の政府と世論の分断を生じさせることを通じ、アメリカの譲歩を求めていくとの方針をとった。しかし、この戦術は奏功しないことが1984年夏には明らかになった。そのこともあり、同年9月のグロムイコ外相の訪米後、ソ連は「対話」路線に転換することとなった。そして、1984年晩秋には軍備管理協議を1985年初頭に再開することで合意した。
対中関係では、1982年3月のブレジネフ・タシケント演説に端を発する関係改善路線を踏襲し、1984年3月と10月に外務次官級の政治協議が実施された。延期されていたアルヒポフ第一副首相の中国訪問の実現(同年12月)、貿易協定締結交渉の開始、1985年3月の中国の全人代代表団のソ連訪問に見られた
中東に対しては、基本的にはアラブ首脳会議のフェズ提案と大差の無い国際会議方式による中東和平提案を打ち出した。また、エジプトとの大使交換再開・クウェートとヨルダンに対する軍事援助などにより、いわゆる穏健派アラブ諸国への接近に意を用いた。1984年10月にキューバにおいて初のコメコン総会を開催し、また同国との間で新しい経済協力協定を締結するなど関係強化に努めた。
アフリカ諸国との関係は、一般に低調であり、エチオピアとの友好協力関係の強化に力を注ぎ、党レベルにおいても交流を深めるなどの努力が目立つ程度であった。
ロサンゼルス五輪への不参加
1984年5月8日、チェルネンコの下でロサンゼルスオリンピックへの不参加が決定された。これは1980年のモスクワオリンピックへの西側諸国の不参加を受けてのものである。このボイコットにはキューバなど14の東側諸国も加わった。ボイコットした国は同年夏に独自の「フレンドシップ・ゲームズ(友情ゲーム)」を開催した。
「只今よりアメリカ軍及び日本軍と交戦状態に入る」
1984年に「只今より極東地域でアメリカ軍及び日本軍と交戦状態に入る」という電文を極東ソ連軍からモスクワに向けて発信させた。これは日米両政府を大いに慌てさせた。だが、しばらくして同軍は動員体制に入っていないことが確認された。
日米両政府はこれを当初「誤報か演習だったと見られる」と判断したが、後にゴルバチョフ政権下のグラスノスチによって、ロナルド・レーガン大統領による「我々は5分後に爆撃を開始する」というジョーク・アナウンスに対する“報復”だったことが判明した。
注釈
出典
- ^ Jessup, John E. (1998). An Encyclopedic Dictionary of Conflict and Conflict Resolution, 1945-1996. Westport, CT: Greenwood Press. p. 121 (
要購読契約)
- ^ 木村明生「クレムリン 権力のドラマ」朝日選書、1985年、p374-375
- ^ 木村明生「クレムリン 権力のドラマ」朝日選書、1985年、p395-396
- ^ Время. Эфир 11 марта 1985 - YouTube - ソビエト連邦中央テレビ(ロシア語)
- ^ Soir 3 : émission du 11 mars 1985 - INA(フランス語)
- ^ Soir 3 : émission du 11 mars 1985 - YouTube - INA Actu(フランス語)
- ^ ニュース速報・字幕スーパー - NHKクロニクル
- ^ Время. Эфир 12.03.1985 - YouTube - ソビエト連邦中央テレビ(ロシア語)
- ^ Прощание с Константином Черненко в Колонном зале Дома Союзов. Время. Эфир 12 марта 1985 - YouTube - ソビエト連邦中央テレビ(ロシア語)
- ^ 木村汎, 皆川修吾, 西村可明 ほか 共著 「ソビエト研究 ソ連を知りたい人のために」教育社 1985年11月15日、p.6
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