EBR-I
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/16 08:42 UTC 版)
EBR-I | |
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![]() アイダホ州にある世界初の原子力発電炉、EBR-I。炉は写真中央の建物で、左の2つの建築物は航空機用原子炉実験のもの。 | |
国 |
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所在地 | アルコ |
座標 | 北緯43度30分41秒 西経113度00分23秒 / 北緯43.51132度 西経113.0064度座標: 北緯43度30分41秒 西経113度00分23秒 / 北緯43.51132度 西経113.0064度 |
運転開始 | 1950 |
運転終了 | 1964 |
原子炉 | |
運転中 | 0.2 MW |
種類 | 高速増殖炉 |
ウェブサイト http://www.inl.gov/ebr/ |
EBR-I(Experimental Breeder Reactor No.1)は、アイダホ州アルコから18マイル(29 km)南東に離れた砂漠の中に建設された高速増殖炉実験炉である。
1951年12月20日午後1時50分、世界初の原子力発電に成功した。そのときの電力は4個の200ワット電球を灯す程度であった。
EBR-Iは、世界初の原子力発電を行った原子炉というだけではなく、世界初の高速増殖炉でもあり、世界初のプルトニウムを燃料とした原子炉でもあった。
その後、1964年に閉鎖されるまで、様々な実験的用途に用いられた。
歴史
EBR-Iは、アメリカの国立原子炉試験場(NRTS: National Reactor Testing Station, 現在のアイダホ国立研究所)の施設として、1949年末に建設が始められた。原子炉は、アルゴンヌ国立研究所のウォルター・ジン(Walter Zinn)のチームによって設計された。
1951年初頭にEBR-Iは完成し、1951年8月24日に初臨界を達成した。同年12月20日には、初の原子力発電に成功した。
EBR-Iの設計の目的は、原子力発電だけではなく、核物理学が示唆する増殖炉の可能性を証明するためであった。1953年の実験では、増殖炉は核燃料を増殖できるという仮説が正しいことを証明した。
しかし1955年11月29日には、EBR-Iは運転員のミスにより部分的な炉心溶融を起こした。その後の実験のために修理が行われた。
廃炉および現在
EBR-Iは1964年に稼働を停止し、EBR-IIに置き換えられた。
1965年にアメリカ合衆国国定歴史建造物に[1][2]、2004年にIEEEマイルストーンに指定[3]された。
1976年から、この施設は毎年戦没将兵追悼記念日(5月最終月曜日)から労働者の日(9月第一月曜日)の期間に限って一般公開されている。他に、1950年代の原子力航空機プロジェクトで開発された2つの原子炉も公開されている[4]。
ギャラリー
EBR-Iのスクラムボタン
出典
- ^ “Experimental Breeder Reactor No. 1”. National Historic Landmark summary listing. National Park Service. 2008年2月6日閲覧。
- ^ Blanche Higgins Schroer (1976年6月12日). “National Register of Historic Places Inventory-Nomination: Experimental Breeder Reactor #1” (PDF). National Park Service. 2009年6月22日閲覧。 and Accompanying 4 photos, from 1975. (PDF, 1.43 MB)
- ^ “Milestones:Experimental Breeder Reactor I, 1951”. IEEE Global History Network. IEEE. 2011年8月3日閲覧。
- ^ Experimental Breeder Reactor-I (EBR-I) opens for summer tours Idaho National Engineering and Environmental Laboratory
関連項目
外部リンク
- Experimental Breeder Reactor-I Idaho National Laboratory Research Fact Sheet
- Idaho National Laboratory facebook
- 海外諸国の高速炉における事故・故障・トラブル(ナトリウム漏えいを除く) - 原子力百科事典ATOMICA
EBRI
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/10 09:49 UTC 版)
EBRI | |
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地図 | |
店舗概要 | |
所在地 |
〒〒069-0821 北海道江別市東野幌町3-3 |
座標 | 北緯43度05分43.62秒 東経141度32分06.45秒 / 北緯43.0954500度 東経141.5351250度座標: 北緯43度05分43.62秒 東経141度32分06.45秒 / 北緯43.0954500度 東経141.5351250度 |
開業日 | 2016年(平成28年)3月25日 |
正式名称 | EBRI |
土地所有者 | 江別市 |
施設所有者 | 江別市 |
施設管理者 | ストアプロジェクト株式会社 |
施工者 | 1951年(昭和26年)8月 |
営業時間 | 10:00〜19:00 ※飲食店を除く |
駐車台数 | 約100台台 |
前身 |
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最寄駅 | 野幌駅 |
最寄IC | 江別西IC |
外部リンク | https://www.ebri-nopporo.com/ |
EBRI(えぶり)、通称「ËBRI」とは、北海道江別市東野幌町に所在する商業施設である[1]。施設名である「EBRI」は「EBETSU(江別)」と「BRICK(レンガ)」の造語から生まれた名称である[1]。
また、本記事では、前身である旧ヒダ工場(旧肥田製陶工場)についても述べる。
概要
ËBRIは、「三次的に生まれる人とのつながり、食文化、ライフスタイルをつくる拠点」として、江別の人との交流・江別の新商品開発・地元市民があつまる拠点を目指している、江別に残る近代産業遺産のレンガ工場を拠点に「こだわりフードとくらしのもの」をコンセプトにしたローカル商業施設である[1]。
2014年(平成26年)8月に民間のアイデアと力により、優れた文化的価値を活かしつつ魅力ある施設として再生し利活用を図るため、江別市は保存活用に関する事業者を公募し、ストアプロジェクト株式会社と20年間の土地建物の使用賃借契約を締結した[2]。その後、旧ヒダ工場の文化的価値を活かしつつ地域経済活性化をもたらす施設として活用するため改修工事を実施し、2016年(平成28年)3月に商業施設「ËBRI」としてグランドオープンした[2]。また、2020年(令和2年)7月には第17回公共建築賞「地域特別賞」を受賞した[2]。
店舗
ËBRIには以下の店舗などがある[1]。
- EBRI STORE
- EBRI MARKET
- ËBRI PUBRICK SPACE
- おいで屋(えぶり市場)
- まちのやおやさん(えぶり市場)
- MAISON DE NORTH
- NOPPOROCOFFEE
- WINE SHOP MARCOMAR
- MELROSE CLAIRE
- 江別アンテナショップGET'S
- KURO〜彩〜
アクセス
所在地
交通アクセス
- 自動車
- バス
- 鉄道
旧ヒダ工場
旧ヒダ工場(旧肥田製陶工場) | |
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情報 | |
旧名称 |
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旧用途 | 煉瓦生産 |
施工 | 1951年(昭和26年)8月 |
建築主 | 株式会社ヒダ |
構造形式 | 煉瓦造及び鉄筋コンクリート造平屋建、金属板葺 |
建築面積 | 1,291.03 m² |
改築 | 1953年(昭和28年) |
所在地 |
〒069-0821 北海道江別市東野幌町3番地2,3 |
文化財 | 登録有形文化財 |
指定・登録等日 | 2019年(平成31年)3月29日 |
旧ヒダ工場(きゅうひだこうじょう)・旧肥田製陶工場(きゅうひだせいとうこうじょう)とは、北海道江別市東野幌町に所在する建築物であり、近代化産業遺産・登録有形文化財である[2]。ËBRIの前身[2]。
概要
窯業で栄えた市中心部にある旧窯業工場[3]。切妻造鉄板葺の平屋建、T字型平面の煉瓦造にL字型平面の鉄筋コンクリート造の増築部を連ねた不整形な建物で、増築部の壁を煉瓦積として一体感のある外観をつくる[3]。近代江別の象徴的存在で、地域に親しまれている[3]。構造は煉瓦造(新築部分)、鉄筋コンクリート造壁部分煉瓦積(増築部分)、屋根部分はいずれも木造トラス構造[2]。
江別市は、1891年(明治24年)にれんがの製造が始まって以来、長い窯業の歴史がある[2]。この歴史は、江別市(特に野幌地区)の産業として市民の生活を支えつつ、文化的にも大きな影響を与えてきた[2]。(詳細は「江別のれんが」も参照。)旧ヒダ工場は、1998年(平成10年)に自主廃業した窯業会社「株式会社ヒダ」の工場跡である[2]。当時は、江別市内に残されていた古くからある窯業工場のひとつであった[2]。建物の構造にれんがが使用されており、JR函館本線に面し車窓からも見えることから、江別らしい建物として市民に愛されてきた[2]。
歴史
1891年(明治24年)に江別でれんがの製造が始まり、1897年(明治30年)ごろには、野幌に北海道炭鉱鉄道会社がれんが工場を設置するなど北海道のれんが生産の中心地として栄えた[2]。この建物は、愛知県常滑市より移住した、肥田房二が1941年(昭和16年)に設立した肥田製陶の工場[2]。排水用、井戸用などのリブ管、集合煙突用素焼管、セラミックブロックなどを生産していた[2]。1975年(昭和50年)ごろには、一時生産を止めていた時代もあったが、その後電気暖房器用の蓄熱れんがの生産も行われてきた[2]。その後、1998年(平成10年)に、業績の不振などで廃業し、2000年(平成12年)10月に江別市がこの工場を歴史的建造物保存活用のために購入した[2]。2019年(平成31年)3月には国の登録有形文化財に登録され、旧ヒダ工場は、江別市の産業遺産であるとともに、れんがのまち江別のシンボル的存在となっている[2]。
沿革
(この節の出典:[2])
- 1941年(昭和16年):肥田房二が東野幌に土管の製造工場を設置し、土管製造を開始。
- 1947年(昭和22年) 5月:肥田土管工場が「肥田製陶株式会社」となり、初代社長に肥田房二が就任。
- 1951年(昭和26年) 6月:工場が火事で焼失。
- 1951年 - 1953年(昭和26年 - 昭和28年):れんが造の窯業工場(現存の建物)を再建・増設。
- 1971年(昭和46年) 2月:社名を「肥田製陶株式会社」から「株式会社ヒダ」に改称した。
- 1977年(昭和52年)12月:工場としての操業を中止。
- 昭和50年代後半:オール電化住宅用の蓄熱れんがの製造を開始し、再び工場として稼動開始。
- 1998年(平成10年) 3月:「株式会社ヒダ」が自主廃業。
- 2000年(平成12年)10月:江別市が土地および建物を取得し、保存事業を開始。
- 2002年(平成14年) 3月:建物利活用の一環として、建物の一部を利用した「江別グレシャムアンテナショップ」が開設。
- 2003年(平成15年) 2月 - 3月:れんが造の「屋外煙突」を復元保存するために解体。
- 2003年(平成15年) 6月 - 8月:れんが造の「屋外煙突」を復元。
- 2009年(平成21年) 2月:近代化産業遺産に認定。
- 2014年(平成26年) 8月 - 10月:保存活用に関する事業者を公募し、ストアプロジェクト株式会社が選定される。
- 2015年(平成27年) 6月 - 12月:文化的価値を活かしつつ地域経済活性化をもたらす施設として活用するため改修工事が行われ、「江別グレシャムアンテナショップ」が一時閉店。
- 2015年(平成27年)12月:「江別グレシャムアンテナショップ」が「江別アンテナショップGET'S」に改称し、旧ヒダ工場が商業施設「EBRI」としてプレオープン。
- 2016年(平成28年) 3月:商業施設「EBRI」がグランドオープン。
- 2019年(平成31年) 3月:国の登録有形文化財に登録。
- 2020年(令和 2年) 7月:第17回公共建築賞「地域特別賞」を受賞。
脚注
- ^ a b c d e f g h “EBRI”. ストアプロジェクト株式会社. 2024年8月15日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t “旧ヒダ工場”. 江別市. 2024年8月15日閲覧。
- ^ a b c “旧肥田製陶工場(EBRI)”. 文化庁. 2024年8月15日閲覧。
外部リンク
- Ebriのページへのリンク