4輪での経歴
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1950年代には2輪で無敵といえる活躍をしたものの、20代半ばの若さで4輪に転向する。1960年からはロータスでF1にレギュラードライバーとして参戦。しかし、同じチームにジム・クラークがいたことから、1961年にはヨーマン・レーシングへ移籍し、プライベーターとして健闘した。 1963年にフェラーリ入りし、技術者的センスを活かしてマシンの開発に貢献。ドイツGPでF1初勝利を挙げる(チームにとって1年半ぶりの勝利でもあった)。 1964年もフェラーリからF1に出場し、同じイギリス人のクラークやグラハム・ヒルと激しい争いを繰り広げ、F1世界チャンピオンの座に着いた。最終戦の残り2周でクラークがマシントラブルに見舞われるという幸運もあり、ワールドタイトル獲得は劇的なものになった(2位ヒルとのポイント差は僅か1点)。勇敢なサーティースはフェラーリの総帥エンツォ・フェラーリに気に入られたが、チーム内のイタリア国粋勢力に疎まれ孤立することになったと言われる。 1965年はF1のチャンピオン防衛に失敗し、北米のスポーツカーレースに参戦中に骨折する。 1966年のベルギーGPで勝利した直後ル・マン24時間レースに参加したが、予選前にドライバーのエントリーをめぐってチーム監督のエウジェニオ・ドラゴーニと衝突し、そのままフェラーリを去ることになった。この年から開幕した北米のカナディアン-アメリカン・チャレンジカップ (Can-Am) では、ローラのマシンを駆って初代チャンピオンを獲得した。 1967年からはホンダF1に移籍。マシンのエンジンは強力だが車体が重いため、ローラとホンダとの仲介役になり、1967年シーズン途中でローラのシャシーにホンダのエンジンを積んだホンダ・RA300(通称「ホンドーラ」)が製作された。サーティースは1967年のイタリアGPでRA300に乗り、ホンダ第1期F1活動の最後の1勝を挙げた。 1970年に自分のF1チームサーティースを立ち上げオーナードライバーとして参戦したが、1970年代前半にドライバー業はほぼ引退した。チーム・サーティースも1978年をもってF1から撤退した。
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4輪での経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 07:50 UTC 版)
伊藤は1970年に富士スピードウェイで行われたJAFグランプリ・フォーミュラ・ジュニア「ジュニアセブンチャレンジカップレース」にシングルシーターのスズキ・フロンテRFで出場、平均速度130.9 km/hで優勝している。2週間後に行われたJAFグランプリレース大会が彼が出走したもう一つの4輪レースであった。 1968年8月にはフロンテSSのプロモーションのためにスターリング・モスと組んでイタリアのミラノからナポリに通じるアウトストラーダ A1750 km (466 mi)を高速で走行した。平均速度は122.44 km/h (76.08 mph)で、わずか356ccのエンジンを搭載した車両で達成した記録として賞賛される。
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