2008年~2011年:怪我明け後の苦難と復活
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「フランチェスコ・トッティ」の記事における「2008年~2011年:怪我明け後の苦難と復活」の解説
怪我明けの2008-09シーズン、8月29日に行われたスーペルコッパ・イタリアーナのインテル戦に出場したが、延長戦を経て2-2の引き分けの末PK戦に突入するも、5人目のキッカーとなったトッティはPKを外してしまい、チームは2-2(PK5-6)で敗北した。11月8日のボローニャ戦ではセリエA400試合出場を達成し、先制点を挙げるも結果は1-1の引き分けに終わった。2009年4月19日の3-2で勝利したホームのレッチェ戦で、セリエA通算175点目となるゴールを決め、アメデオ・アマデイの記録を上回りセリエAでの通算得点数において歴代10位にランクインした。2009年7月に、クラブとの契約の2014年までの延長した。 翌2009-10シーズンはローマは開幕から2連敗というスタートを切り、4年間指揮を執ったスパレッティが監督を辞任、後任には前ユベントスのクラウディオ・ラニエリが就任した。スパレッティの辞任については、トッティも「避けられないことだった」と話している。ラニエリの就任後チームの成績は好転し、セリエAで24試合無敗を記録するなど優勝争いを展開。トッティはチャンピオンズリーグ予選では第3ラウンドのKAAヘント戦の1stレグ、プレーオフのFC VSSコシツェ戦の2ndレグでそれぞれハットトリックを達成、セリエAでも11月22日のバーリ戦でセリエAでは7年ぶりとなるハットトリックを記録した。その8日後、ローマと新たに5年間の契約を結んだことを正式に発表し、その後はクラブのディレクターに就任すると述べた。その後、複数の怪我に悩まされていたも関わらず、ガブリエル・バティストゥータ、ジュゼッペ・シニョーリ クルト・ハムリンらの通算得点数を抜き、セリエA歴代単独6位の得点数となった。コッパ・イタリアでは決勝に進出し2シーズンぶりにインテルと対戦したが、ローマは0-1で敗れ、またこの試合でトッティは終了間際にマリオ・バロテッリを後ろから蹴りつけ、退場処分を受けた。この行為でトッティは多くの批判を受け、一時は引退を考えるほどに悩むこととなった。 翌2010-11シーズンのスーペルコッパ・イタリアーナでもローマはインテルにまたしても敗北を喫し、試合後にトッティは監督のラニエリの採った守備的な戦術を公然と批判した。同年にゴールデンフット賞を受賞したが、ラニエリはトッティの年齢を不安視していたことから、彼の代役として若手のマルコ・ボリエッロやミルコ・ヴチニッチ、ジェレミー・メネスらの適応を優先させる方針を採った。9月15日に行われたCLグループステージ第1節のバイエルン戦の試合後には戦術批判とも取れる発言が報じられ、9月25日のインテル戦では75分の途中交代後にベンチに座らず直接ドレッシングルームへ戻り、試合後には他の選手よりも先にスタジアムを離れるなど怒りを露にし、試合の翌日にはラニエリとの話し合いが行われるなどしたが、一方でラニエリはトッティに対する強い信頼感を示した。しかし2011年1月9日の1-2で敗れたアウェーのサンプドリア戦では後半のロスタイムというタイミングで交代で投入されたことで再び不仲説が報じられるようになり、一部ではラニエリとの確執から退団の噂までも流れた。2011年2月20日のジェノア戦でチームが3-4で敗北し4連敗を喫した後、ラニエリはローマの監督を辞任し、後任には2001年のローマの優勝メンバーの一人であり、元チームメイトのモンテッラが就任した。 モンテッラはチームのフォーメーションをスパレッティ時代の4-2-3-1に戻し、トッティの出場機会を再び増やし、結果としてトッティは以前のベストフォームを取り戻すようになった。3月13日のラツィオ戦では2得点を挙げ、ローマダービーでは5度目となる勝利を収めた。また3月20日の2-2で引き分けたフィオレンティーナ戦では2得点を挙げてセリエA通算201得点を記録し、セリエAで200得点を挙げた史上6番目の選手となった。4月9日のウディネーゼ戦でも2得点を挙げて9シーズン連続12回目となるセリエA2桁得点を達成し、試合後にトッティ本人も「20歳の時でもこれほど好調だったことはない」と話した。5月1日のバーリ戦で、セリエAでの通算得点数を206に延ばし、ロベルト・バッジョの記録を抜いて歴代5位の通算得点記録保持者となった。このシーズンは15得点を記録し、最後の13試合では12得点を挙げる活躍を見せた。 2010-11シーズンの終了後、ローマはクラブの所有者を旧オーナーのロゼッラ・センシ(英語版)から、トーマス・ディベネデット(英語版)率いるアメリカ資本に取って代わられることとなった。新たな経営陣の下でクラブはモンテッラとの契約を更新しなかったため、モンテッラはカターニアの監督へと移動した。ローマの経営陣はバルセロナスタイルのフットボールを模索するため、バルセロナBの監督を務めていたルイス・エンリケを監督に指名した。
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