2代目 HE系(1995年-2000年)
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「マツダ・センティア」の記事における「2代目 HE系(1995年-2000年)」の解説
1995年11月に販売が開始された。 2代目センティアは、当時の景況及びマツダの台所事情から、開発途中で(MPVのように)初代のビッグマイナーチェンジで済ます方法も提案された。最終的に経営会議の席上で、ビッグマイナーチェンジ版とフルモデルチェンジ版の両方が検討された結果、1995年にフルモデルチェンジを迎えた。 初代のパーソナルセダンからはうって変わり、所謂「中型車要件」を盛り込んだフォーマルにも対応できるセダンへと変貌した。簡単に言えば、「HC系ルーチェのお客様にも乗ってもらえるセダン」へと先祖返りした訳である。そのため、スタイリッシュだった初代と比べ、押出し感や威厳を強調させたスタイリングとなっている。2代目のスタイルは幻に終わったアマティ1000のスタイルによく似ているといわれている。更に、当時同じフォードグループであった、ジャガー・XJにも、内装のインパネデザインなど、影響を受けた所も多数ある。この様なデザイン等の変更により、初代にて不評だった後席居住性やトランク容量が改善された。 この大幅なスタイルの変化は、マツダのフラッグシップとなる予定であったアマティ1000が発売されなかったことにも起因するもので、さらにいえば、初代センティアがパーソナルかつスタイリッシュな装いだったのも、重厚な装いを纏うアマティ1000を発売する前提があったからこそあれだけ大胆な方向へ振ることができた、とも言われている。 広告及びCMキャクラターにショーン・コネリーを前面に起用し(彼をイメージしてデザインされた)、重厚かつ高級さを前面に押し出したCMを放送していたが、時代の流れに乗り切れず、販売にもつながらなかった。韓国の起亜自動車はこれをベースにしたモデルをポテンシャの後継として「エンタープライズ」という名称で生産した。 前述のようにフルモデルチェンジを果たしたとはいえ、マツダの経営状況が厳しい最中のデビューだったこともあり、開発費の都合上スキンチェンジとせざるを得ず、プラットフォームのみならず、インナーパネル等に至るまで初代からの流用となった。インテリアもコストダウンがはっきり分かってしまうほど品質が低下してしまったことや、更にはマツダの販売チャネルの整理・経営改革の真っ只中という悪条件が重なり、競合車種のクラウン、セドリック/グロリアはともかく、ウィンダム、セフィーロ、ディアマンテなどのFFミドルセダンという新興勢力の中にも埋もれてしまい、販売は苦戦した。 エンジンは全車3Lのみで2.5Lは廃止された。センティアからの3.0L V6DOHC24バルブ(205馬力)とMPVやかつての5代目ルーチェと共通のSOHC18バルブ(160馬力)の2種類が用意された。初代に続き、車速感応型4WS装着車種も用意されたが、日産のスーパーハイキャスのようなヨーレート感応型ではなかったことから作動に違和感があったため、それを和らげるために最大転舵角を7度から5度に縮小した。 1997年9月、マイナーチェンジでフロントグリルの桟を横から縦に変更と同時にマツダの新CIマークに変更された。見劣りしていた内外装のグレードアップも図った(前期では、ロイヤルクラシック以外には採用されていなかったフェンダーマーカーや、シェードつきフロントガラスなどをほぼ全車に採用)。 2000年6月に生産終了。流通在庫分のみの販売となる。 決算となる2000年11月までに流通在庫分の未登録車の登録を全て完了し、販売終了となった。これにより同社より後輪駆動の高級セダンが消滅した。 なお、センティア廃止後は後継モデルの開発が行われておらず、事実上の後継車はセンティアより格下の価格帯となるミレーニア(1997年販売)となったが、そのミレーニアも決算となる2004年3月までに流通在庫分の未登録車の登録を全て完了し、販売終了となった。それ以降、マツダからラージサイズセダンのラインナップは姿を消している。なお、センティアが担っていた同社の重役送迎や広島県の公用車にはMPVやCX-8が使用されている。
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