1996年公判
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「オウム真理教の歴史」の記事における「1996年公判」の解説
1996年(平成8年)4月24日初公判 麻原被告は人定質問で「麻原彰晃」と名乗り、本名の松本智津夫という名前は「捨てました」と述べ、職業は「オウム真理教の主宰者です」と答えた。麻原は各事件の罪状認否について「いかなる不自由、不幸、苦しみに対して一切頓着しない、聖無頓着の意識。これ以上のことをここでお話しするつもりはありません」と述べただけで、事実については語らなかった。麻原は、96年4月頃には「寝たきり老人になります」「私がやっていることはレジスタンスです」と述べ、5月15日には「拘置所の壁は厚く、洞窟に似ている。絶好の瞑想の機会を得ている」「瞑想修行を完成させたいので今の環境に満足している」と述べた。 1996年10月4日の公判で、広瀬健一は、逮捕後も帰依心は揺るがなかったが、被害者の調書を読んでぐらついたと述べ、「(麻原は)本当は自分の力(無力)に気づいている」「直視して、真実を見極めてもらいたい」と述べた。翌11月、広瀬への反対尋問が始まると、「この裁判は異常」「ここは劇場じゃないか。死刑なら死刑でいい!」と麻原は呟き、退廷となった。 岡崎が坂本事件での麻原の殺害(ポア)指示を証言すると、麻原は「完全に嘘だ」「裁判長を出せ」と大声で妨害、退廷となった。早川も端本も坂本弁護士事件での麻原による殺害指示を証言した。 1996年10月18日第13回公判 検察側証人としてリムジン謀議を証言した井上嘉浩被告への反対尋問を弁護団が開始すると、麻原は「アーナンダ(井上)は私の弟子であり、偉大な成就者である。このような人に反対尋問すると、尋問する者だけでなく、それを見聞きする者も害を受け、死ぬこともある。この事件についてはすべて私が背負うこととします。」と尋問中止を求めた。休廷後、麻原「私は全面無実です。修行を成就した井上嘉浩君を苦しめるだけで、皆さんに苦しみの業を与えることになる。(略)私の真意としては反対尋問を中止していただきたい」と述べた。弁護団は尋問中止を求めたが、裁判長は尋問を続行した。安田弁護士は、麻原を説得、反対尋問を続けた。以降の反対尋問では、麻原の事件への関与がより印象づけられ、麻原は弁護団に不信感を強めた。閉廷間際、麻原は「井上証人。精神状態が悪いと思われるかもしれないけど、そこで飛んでみてくれ。」といった。井上の7回の証言中、麻原は「そんなことばっかりいっていると来世は地獄に落ちるぞ」「何のために村井が死んだか考えろ。お前が喋らなければそれで済んだじゃないか」などと繰り返し井上に聞こえるように囁いたが、井上の離反が強まるだけだった。 10月18日の公判が終わって拘置所へ帰所後、麻原は「俺の弟子は…」「くそー」と泣き叫びながら、チーズを壁に投げつけたり、翌早朝まで独り言を言った。10月21日早朝には、独居房の扉を叩いて「私は出たい」と大声を出し、「早く、精神病院に入れてくれ」と叫び、扉を足で蹴るなどしたため、保護房に収容された。2日後、独居房に戻ったが、その翌日、「ここから出せ」と刑務官に頭から体当たりをし、押し倒そうとしたため、再び保護房に収容された。11月には職員に「ここから出れるんですか?」と質問を繰り返した。1996年10月21日から11月20日にかけて弁護団が21回接見を求めたが、14回は拒否した。弁護人の接見で、麻原は、鼻水や涙を流しながら錯乱していたり、終始うつむき、反応も心もとなく、以降は、たまに言葉が通じたが、面会拒否されるようになり、1997年以降は弁護団は麻原と意思疎通できなくなった。安田弁護士によると、以前の松本被告はジョークも言うし、相手の心を読んで話を引き出すような問いかけをしたり、教団や信者の相談にも威圧的でも断定的でもなかったという。
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