1993 - 2000:オスロ和平プロセス
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「パレスチナ問題」の記事における「1993 - 2000:オスロ和平プロセス」の解説
詳細は「オスロ合意」を参照 1991年10月、マドリードで中東和平会議開催。しかし、PLO指導部はイスラエルの反対で排除され、パレスチナはPLO色の薄い人物を、ヨルダンとの合同代表団という形で参加させたに留まった。 1993年9月13日調印、イスラエルとPLO、パレスチナ人の暫定自治の原則宣言にワシントンD.C.で調印(写真参照)(オスロ協定*)成立。その結果、1994年5月よりガザ・エリコ先行自治が開始され、自治政府も組織されはじめた。PLOのアラファート議長とイスラエルのイツハク・ラビン首相、シモン・ペレス外相がノーベル平和賞を受賞した。 1995年9月24日、ワシントンで「暫定自治拡大合意(英語版)」(オスロ合意Ⅱ)がPLOとイスラエルの間で調印された。ヨルダン川西岸は、パレスチナ自治政府が治安・行政の双方を担当する「A地区(日本外務省の呼称は「A地域」、以下同)」、パレスチナが行政、イスラエル軍が治安を担当する「B地区」、イスラエル軍が治安・行政共に担当する「C地区」に分割された。「C地区」は、将来の交渉で順次、パレスチナへの移管が行われる計画だった。 1996年1月にパレスチナ評議会の選挙が行われた。その矢先の1995年11月4日に和平に尽力したイスラエルのラビン首相はテルアビブにおいてカハネ主義者のイガール・アミルに射殺された。イスラエルでは原則として労働党が「和平推進」(エルサレムとヨルダン川西岸の戦略的に重要な土地を併合)、リクードが「和平反対」(パレスチナ全土を併合)とみなされてはいる。しかし、イスラエルがシナイ半島からの撤退に基づく対エジプト和平を推進したのは右派政党のリクードのメナヘム・ベギン政権であった。また、パレスチナ暫定合意や対ヨルダン和平を推進したのは左派政党の労働党のラビン政権ではあるが、ラビンは政界で活動する以前はイスラエル軍の参謀総長として第三次中東戦争を指導していた。 1996年、イスラエルに対する、アラブ・イスラム原理主義者(ハマース、イスラーム聖戦、ヒズボラ)によるテロが激化する。 1997年1月17日、ヘブロン・プロトコル、自治拡大。 1998年10月23日、ワイリバー覚書、自治拡大。 2000年7月には、キャンプ・デービッド2000年サミット(英語版) 首脳会談後のアラファート議長が、イスラエル側の「西岸地区の91%の支配権を認める、ただしこれとは別に西岸地区の1割の面積を当分の間(6〜21年)イスラエル側の支配下に置く」とする和平案を拒否した。イスラエルのエフード・バラック首相は「寛大な申し出を拒否した」と非難した。パレスチナ側が拒否をした理由として、一つは単純に準備不足があった。アラファートはアラブ諸国と協議の後に結論を出そうとしたが、イスラエルとアメリカは本会談で結果を出そうと結論を急がせていた。もう一つは、パレスチナ側は、安保理決議242及び338の受諾自体を譲歩と認識していた。しかしイスラエルは、安保理決議242に基づく領土の「譲渡」を完全に行う必要はなく、オスロ合意でパレスチナ側も受け入れたと認識した、認識のズレがあった。その結果、東エルサレムの帰属やパレスチナ難民帰還問題など、各論で折り合うことができなかった。また、航空交通管制や水利権において、イスラエル側が現状維持を主張したことも対立点となった。
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