1989年前後の中国をめぐる内外情勢
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「韜光養晦」の記事における「1989年前後の中国をめぐる内外情勢」の解説
まず、1989年前後の鄧小平の外交路線について見て行く。鄧小平は、改革開放政策を推進し、経済建設を最優先するため、国際共産主義運動の推進と階級闘争を中心とするそれまでの外交政策を転換し、平和的な国際環境の確保を対外政策の基本方針とした。特に1982年からは、全方位外交を打ち出し、時に対立と緊張の当事者となりつつも、概ね各国との平和共存を基調とした外交を展開した。ただし鄧の指導した外交政策から、それ以前の毛沢東時代の外交上の原則が完全に排除されたわけではない。帝国主義列強の侵略を受けて半植民地化された記憶が消え去ってはおらず、香港返還や台湾統一あるいはチベット族やウイグル族の民族運動などについて譲るところはなかった。すなわち鄧は、経済建設のための宥和外交と、主権保全のための強硬外交という、時に矛盾し、対立する二大方針のバランスを保持していた。全方位外交は、中国の経済建設にとって大きな役割を果たした。さらには1989年半ばまでに対ソ、対印関係も含め、全般的に良好な対外関係を展開するようになり、それを基礎として経済交流も順調に発展した。しかし、順風満帆に見えた中国外交は、天安門事件の勃発によって最大の危機を迎えた。このとき鄧は、継続しつつあった西側からの制裁や、今後起きるかもしれない攻撃への対応について後継者たちに指示を与えた。「冷静観察、穏住陣脚、沈着応付」(最初に物事を冷静に観察すること。第二に足場をかためること。第三に沈着に対応すること。)と指示した。さらに追い打ちをかけるように、ソ連・東欧の脱社会主義化が一気に加速する。中国は、西側諸国からの非難と制裁の的となると同時に東側陣営の崩壊に直面するという孤立状態に陥った。1991年には、遂にソ連が解体し、ソビエト共産党が解散するに至った。アメリカも人権、武器輸出、貿易、台湾との関係において厳しい対中政策をとり、鄧の宥和外交に大きな困難をもたらした。これら内外の危機に直面して、中国国内では計画経済論者と左派イデオローグが再び勢いを取り戻した。改革開放政策への批判が再燃し、党の中核である政治局常務委員会において、市場経済化という改革の方針に強い疑義が示された。天安門事件からソ連崩壊という困難な時期を通じて、鄧はしばしば「冷静観察、穏住陣脚、沈着応付、有所作為(冷静に観察し、足場を固め、落ち着いて対処し、できることをやれ」」という決まり文句を繰り返した。鄧はアメリカからの様々な圧力に対しても、時に強い反応を示しながら、米中は互いに「信頼を強め、面倒を減らし、協力を発展させ、対抗は行わない」という基本姿勢を崩さなかった。前田後掲書は、この宥和政策を「韜光養晦」政策と捉える。
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