1970〜1982年:『シャルリーエブド』第一期とは? わかりやすく解説

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1970〜1982年:『シャルリー・エブド』第一期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 05:39 UTC 版)

シャルリー・エブド」の記事における「1970〜1982年:『シャルリー・エブド』第一期」の解説

1970年11月9日にコロンベ=レ=デュー=エグリーズでフランス18大統領シャルル・ド・ゴール死去した。これを受けて『レブド・アラキリ』は11月16日号の見出しを「コロンベで悲劇ダンスパーティ犠牲者1人 (Bal tragique à Colombey - un mort)」とした。これはショロンアイディアで、11月1日サン=ローランデュ=ポンイゼール県)のディスコテーク起こった放火事件死亡者146人)に関する新聞見出しパロディーであった。これにより『レブド・アラキリ』はレイモン・マルスラン(フランス語版内相から発禁処分を受けることになった。『レブド・アラキリ』のメンバーらは新聞発行続けるために週刊新聞『シャルリー・エブド』創刊した。これは『アラキリ』延長線上にあるものではなく、既に刊行されていた『月刊シャルリーフランス語版)』(編集長ジョルジュ・ウォランスキ) の内容受け継ぐものであった月刊紙『シャルリー』は、当初イタリア月刊紙『ライナス』の仏語であったチャーリーライナスも、『ピーナッツ』登場人物である。メンバーらは「シャルリーチャーリー)」という名前の「お人好しっぽくて、ちょっとずれていて、ほんのちょっと時代遅れな (débonnaire, légèrement décalé et un tout petit peu désuet)」感じ気に入ったとし、併せて先に発禁処分受けた経緯から)シャルル・ド・ゴールへの言及を含むものだと説明した『シャルリー・エブド』第1号1970年11月23日発行『アラキリ』同様、ショロン発行責任者フランソワ・カヴァナ編集長であった『アラキリ』風刺精神受け継ぎながら、ポリティカル・エコロジー(フランスにおけるこの分野の先駆者であるピエール・フルニエ (ジャーナリスト)(フランス語版)が担当)、反人種差別反軍国主義、そしてフェミニズム支持する内容であった1971年『シャルリー・エブド』ビュジェ原子力発電所抗議する訴え掲載しビュジェでのデモ呼びかけた。これに応えて12,00015,000人がデモ参加しフランス(および欧州)における反核運動発端となった『シャルリー・エブド』動物愛護運動でも同様に先駆的な役割を果たすことになった。同じ頃、『シャルリー・エブド』は「一人はみんなのために、みんなは一人のために」をもじった「一人みんなのために、みんな腐ってる (Un pour tous, tous pourris !)」というスローガンを使うようになり、後にコリューシュ受け継がれた。コリューシュコメディアンだが特に心のレストランフランス語版)(貧しい人に食事無料配給する団体)を立ち上げたことで知られる1972年ピエール・フルニエがポリティカル・エコロジー運動の一環として『ラ・グル・ウヴェルト(フランス語版)』(「大口開けて / 黙っていられない」)を創刊『シャルリー・エブド』カヴァナ、ウォランスキ、レゼール、カビュらが参加した1979年から1980年にかけてコリューシュ『シャルリー・エブド』に「貧乏人はばか」、「ばかと物わかり悪いやつら新聞」と題するフォト漫画掲載1981年コリューシュ大統領選出馬表明したとき、『シャルリー・エブド』はこれを支持する公式新聞となったショロン影響力が強まるにつれて『シャルリー・エブド』編集方針変わり、みだらでスカトロジー的なユーモア弄するようになったこうした傾向とは一線を画していたカヴァナは、次第『シャルリー・エブド』離れ作家活動専念するようになった『シャルリー・エブド』広告一切掲載しない方針であり、広告収入ゼロ販売収入キオスクでの販売定期購読)のみで経営維持しているため、購読者が減少すれば直接経営影響するショロンずさんな経営により債務重なり新たな方向性も見いだせなくなっていた。1981年5月大統領選挙および6月総選挙社会党第一党になり、1973年『シャルリー・エブド』同様に左派新聞として創刊された『リベラシオン』が時代の空気伝えることができたのに対して『シャルリー・エブド』時代遅れの感があった。窮地脱するため唐突に1981年3月16日から18日まで『シャルリー・マタン (Charlie Matin)』という日刊紙発行したが、1981年末には破産申立行い12月23日最終号発行した

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