1915年の西部戦線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 09:07 UTC 版)
「第一次世界大戦」の記事における「1915年の西部戦線」の解説
西部戦線においては連合国軍がドイツ軍の両翼に圧力をかけてリールとヴェルダンの間にある大きい突起部を切り離し、あわよくば補給用の鉄道を断つという伝統的な戦略をとった。この戦略の一環として、1914年末から1915年3月まで第一次シャンパーニュ会戦(英語版)で消耗戦が行われた。すなわち、敵軍の士気低下を目的とする箱型弾幕を放った後、大規模な歩兵攻撃を行ったのであったが、ドイツ軍は反撃で応じ、また塹壕戦では堅固な守備、弾幕と機関銃の使用などで防御側が有利だったため、ドイツ軍は連合国軍の攻撃を撃退した。連合国軍は小さいながら戦略的に脅威であるサン=ミーエル(英語版)への攻撃(イースターの戦い (Osterschlacht) または第一次ヴェーヴル会戦 (Erster Woëvre-Schlacht))も試みたが失敗に終わった。 第二次イーペル会戦の初日である4月22日に毒ガスが使われたことは「戦争の歴史の新しい章」「現代の大量殺戮兵器の誕生」とされている。第一次世界大戦の化学兵器(英語版)の使用は連合国軍が催涙剤を使う前例があったが、4月22日に使われたのは致死性のある塩素ガスであり、ハーグ陸戦条約に違反した行動であった。そのため、この行動はプロパガンダに使われた。ドイツの化学者フリッツ・ハーバーが計画した毒ガス作戦は風向に影響されており、ガスボンベは3月にイーペル近くの最前線にある塹壕に設置されたが、西フランドルで東風が吹くことは少ないため、攻撃は数度延期された。4月22日は安定した北風が吹いたため、イーペル近くにある連合国軍の前線の北部でガスが放たれた。効果は予想以上であった。フランスの第87師団と第45アルジェ師団が恐慌を起こして逃亡、連合国軍の前線に長さ6kmの割れ目を開いた。ガス攻撃による死者は当時では5千人と報じられ、現代では死者約1,200人、負傷者約3千人とされている。ドイツ軍はこれほどの効果を予想せず、進軍に必要な予備軍を送り込めなかった。さらに、ドイツ軍もガスの影響を受けた。結局、連合国軍はイギリス軍と新しく到着したカナダ師団で持ちこたえ、第二次イーペル会戦では大した前進にはならなかった。ガスの使用により、第一次世界大戦の塹壕戦(ドイツ語版)ではまれである守備側の損害が攻撃側よりも遥かに大きい(7万対3万5千)という現象が起こった。 5月9日、英仏は第二次アルトワ会戦(英語版)で突破を試みた。会戦の結果は連合国軍が111,000人、ドイツ軍が75,000人の損害を出したが、連合国軍は限定的な成功しかできず、攻勢は6月中旬に中止された。ドイツ側では塹壕戦における守備側の有利をさらに拡大するために戦術を変更した。守備側は伝統的には兵士を見晴らしが最もよく、射界が最も広い最前線に集中して配置したが、連合国軍が物質上で優位にあったため、ドイツ軍は守備を塹壕の2列目に集中した。これにより、連合国軍が塹壕を突破する間にドイツ軍が予備軍を投入することができる一方、連合国軍の砲兵は視界の問題によりドイツの陣地を消滅させられるだけの射撃の正確さを失った。 1915年の西部戦線における最後の戦闘は9月から11月にかけて、連合国軍が仕掛けた第二次シャンパーニュ会戦(英語版)と第三次アルトワ会戦(英語版)だった。シャンパーニュ会戦とローの戦い(英語版)はともに失敗して大損害を出し、大量の物資を費やしながら結果が伴わなかった。「協商国の部隊は最小限の前進のために25万人までの損害を受けなければならなかった」。
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