14年ぶりの帰郷
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寛政2年(1791年)の竹阿の没後、一茶は再び素丸の渭浜庵に執筆として住み込むようになった。寛政3年(1792年)春、一茶は師匠の素丸に父の病気を理由に、帰郷を申し出た。この帰郷については「寛政三年紀行」という紀行文が残されている。ただし筆跡から見て寛政3年の帰郷時に書かれたものそのものではなく、文化3年(1806年)から文化5年(1808年)頃に改作されたものであると考えられている。内容的には方丈記、奥の細道、野ざらし紀行など、古典や芭蕉の著作などの影響が見られる。 なおこの寛政3年の帰郷は、一茶にとって15歳で故郷を離れて江戸に奉公に出てから14年ぶりとなる帰郷であったと考えられている。これは寛政3年紀行に描かれている浅間山の情景からも裏付けられる。安永6年(1777年)に一茶が故郷を離れた後、天明3年(1783年)に浅間山は大噴火を起こしており、かつて見た浅間山周辺の様子から一変した荒涼たる光景に驚いている。このことからも一茶が安永6年以降、帰郷したことがなかったと推定されている。 一茶の14年ぶりの帰郷は寛政3年3月26日(1791年4月28日)に江戸を出発した。しかし北信濃の実家に直接向かうことはなく、まずは下総方面を目指した。下総で一茶は同門の葛飾派の知己を巡り、餞別を集めて旅費の工面を図った。下総の旅の中で、一茶は現在の茨城県北相馬郡利根町布川で、葛飾派の俳人、馬泉と考えられる仁左衛門の新居を祝った新家記という文章を書いている、その中で「このような山水に恵まれ、風情のある場所はめったにない、風情を知るものがこのようなところに住めばどんなにか心豊かに過ごせるであろうか、翻って私は、目はあっても犬同然、耳はあっても馬同然なので、せっかくの美しい風景、風情もいっこうに心に響かない、まさに『景色の罪人』です」。という内容の文を記した上で 蓮の花虱(しらみ)を捨るばかり也 と詠んだ。新家記の文章の構成自体は芭蕉の俳文を参考にしているが、句は美しい蓮の花を前にして虱を捨てるばかりの自分の姿を詠んでいる。当時29歳の一茶は、早くも一茶の俳句の特徴ともいうべき、風雅な蓮の花よりも虱、つまり実生活や生活に結びついた感情を題材とする点、そして伝統的な花鳥風月を愛でる感覚に反発を見せる一面を見せていた。 4月8日(1791年5月10日)には江戸に戻り、2日後、故郷へ向けて改めて江戸を出立した。一茶は基本的に中山道を進み、碓氷峠を越え、軽井沢周辺では前述のようにかつて見た光景と一変した、天明の大噴火後の浅間山周辺の荒涼とした光景を描写している。追分宿からは中山道を離れて北国街道に入り、善光寺を参詣して4月18日(1791年5月20日)に柏原の実家に14年ぶりの帰郷を果たした。寛政三年紀行では、「父母の健やかなる顔を見ることのうれしく、めでたく、ありがたく」と記録しており、実父ばかりではなく、関係が悪かったおかげで江戸へ奉公に出なければならなかった継母に対しても、14年ぶりの再会を喜んでいる。しかし一茶はその後、継母、腹違いの弟との激しい確執が続くことになり、継母との再会を喜ぶような記述はこれが最後のこととなった。 一茶は寛政3年の帰郷時に、父に対して西日本各地を巡る計画があることを打ち明けた。これはもちろん俳諧修行が第一の目的とした旅であるが、計画を聞かされた父から、京都の西本願寺の代参を依頼された。前述のように父を始め一茶の一家、一族は浄土真宗の信者であり、父、そして一茶自身も熱心な浄土真宗の信者であった。
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