黙秘・否認から自白へ
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「藤沢市母娘ら5人殺害事件」の記事における「黙秘・否認から自白へ」の解説
被告人F・弁護人ともに公判途中からは一転して起訴事実を認め、弁護人は情状酌量を求める方針に転換した。1986年(昭和61年)3月25日に開かれた第41回公判で、被告人Fは閉廷直前にそれまでの無罪主張を翻し、「自分は5人の殺人・10件の窃盗で起訴されているが、それらはすべて事実だ。それまで本当のことを言わず迷惑をかけて申し訳ない」と述べ、自ら起訴事実を全面的に認めた。一方でこの公判直前(3月10日9時ごろ)、Fは拘置先・横浜拘置支所で自殺未遂を起こし、それ以降は向精神薬投与・抗ヒスタミン剤注射などの治療を受けていた。 第42回公判(1986年5月13日)では担当裁判官の交代による更新手続きが行われ、Fは被告人陳述で前回と同様に起訴事実を全面的に認めた。また、それまで黙秘したり、事実と異なる発言をしていた理由について、「裁判の長期化を狙ったためだが、今年3月ごろから『あんな悪いことはせず、真面目に生活していればよかった』と後悔・反省するようになった」と述べた。同日の公判で検察官は、捜査段階における自白調書などを証拠申請したが、弁護人は「状況が変わったため、被告人Fと十分打ち合わせをした上で認否する」として認否を留保した。 一方、弁護人・本田はFが起訴事実を認めたことについて真意を計りかね、Fと横浜拘置支所で面会したが、「Fの言動は正気ではない。拘禁性ノイローゼどころか、精神障害を起こしている可能性すらある」という感想を抱いた。弁護人は第43回公判(1986年6月16日)で「最近、Fは拘置支所内で異常な言動を取っていたり、接見で『うるさい音がして眠れない』『電波が飛んでいる』などと訴えたりしており、精神的な機能障害が進行していることが認められる。仮に精神疾患があれば自白は無効だ」と主張し、横浜地裁に精神鑑定実施を申請した。しかし、Fは和田からの被告人質問で日が経つにつれて自分の犯行を後悔するようになったので罪を認めた」と述べたため、和田は「被告人Fは自分が現在置かれている立場・問われている責任を理解した上で証言を翻しており、防御能力は備わっているため精神鑑定は必要ない」として申請を却下した。 Fは1987年(昭和63年)3月16日の第51回公判で、弁護人からの被告人質問に対し、X事件について「Xが事件2か月前に現金を持ち逃げしたことで殺意が生じ、Xが自分に窃盗の罪を擦り付けようとしていたことを知って殺意が確定的になった」と述べ、Xの両親への謝罪の言葉を口にした。しかしその後、Fは再び不規則発言を再開したほか、第53回公判(1987年6月18日)では後に判決公判の際にも名前を挙げた暴力団幹部の実名(『毎日新聞』によれば広域暴力団・稲川会総裁の稲川聖城)を挙げ、「週刊誌を読んで知ったことをきっかけに尊敬するようになり、この人の子供になりたいと思った。自分のこの願いを裁判長から伝えてほしい」と述べた。 事実審理は第56回公判(1987年10月27日)まで続いたが、Fが公判で全面否認を繰り返し、弁護人も調書の証拠採用に同意しなかったため、検察側は関係者100人以上に証言を求めた。そのため、公判は最初の殺人容疑における起訴(1982年7月) - 論告求刑公判(1987年11月)まで5年4か月、初公判(1982年10月) - 判決(1988年3月)までを要する長期審理となったが、主な争点は被告人Fの情状面で、検察・弁護人とも事実関係に特段の争いはなかった。
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