黙阿弥との出会い
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「市川小團次 (4代目)」の記事における「黙阿弥との出会い」の解説
1854年(安政元年)3月、江戸 河原崎座の『都鳥廓白浪』(忍の惣太)で小團次は二代目河竹新七(河竹黙阿弥)と出会う。以降、小團次・新七の提携による一連の演目が創作されてゆく。 主なものに 『蔦紅葉宇都谷峠』(文弥殺し) の 文弥・仁三 1856年(安政3年9月) 市村座 『鼠小紋東君新形』(鼠小僧) の 稲葉幸蔵 1857年(安政4年1月) 市村座 『網模様灯篭菊桐』(小猿七之助) の 小猿七之助 1857年(安政4年7月) 市村座 『小袖曾我薊色縫』(十六夜清心) の 清心のち鬼薊清吉 1859年(安政6年1月) 市村座 『三人吉三廓初買』(三人吉三) の 和尚吉三・文里 1860年(安政7年1月) 市村座 『加賀見山再岩藤』(骨寄せの岩藤)の 岩藤・鳥居又助 1860年(安政7年3月) 市村座 『勧善懲悪覗機関』(村井長庵) の 村井長庵・久八 1862年(文久2年8月) 守田座 『曾我綉侠御所染』(御所の五郎蔵)の 五郎蔵・百合の方 1864年(文久4年2月) 市村座 などがある。 これらの作品には、当時の騒然とした世相を反映して、白浪物が特に多い。小團次は盗賊を次から次へとつとめたことから「白浪役者」、果ては「泥棒小團次」などとあだ名されたほどだった。しかしそうした盗賊も大泥棒でなく、市井の片隅に生きる人間くさい盗賊だった。研究熱心な小團次はさまざまな工夫を凝らし、名もない人々の喜怒哀楽を心迫の演技でつとめた。彼が愁嘆場で熱演のあまり泣出すと観客までももらい泣きをするほどだったという。黙阿弥はそんな小團次の柄に合うように優れた作品を作った。 また、旧作では『勧進帳』の富樫や『敵討天下茶屋聚』の弥助・元右衛門、『義経千本櫻・吉野山』の狐忠信、『絵本太功記』の光秀、『菅原伝授手習鑑・寺子屋』の松王丸などを得意とし、『伊達娘恋緋鹿子(櫓のお七)』では娘役の八百屋お七を人形振りで演じ、その可憐さに観客を驚嘆させた。 舞踊の技能や早替り宙乗りなどのケレンにとどまらず、立役・老役・女形・敵役などどんな役でもこなす演技力をつけていた。当時の流行歌には「にがほは豊国、やくしやは小團次 ハイヨ とうじさくしやは みなさん、川竹、ひいきはたいそ、たいそ」とあり、役者絵の三代目歌川豊国・作家の黙阿弥・役者の小團次は、江戸っ子の人気を集めた時の御三家的存在だったことが伺われる。 後進の指導にも熱心で、九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎、七代目市川團蔵など明治の名優は多かれ少なかれ小團次の影響を受けているといって差し支えない。
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