守田座とは? わかりやすく解説

もりた‐ざ【森田座/守田座】

読み方:もりたざ

歌舞伎劇場。江戸三座の一。万治3年(1660)森田太郎兵衛木挽町創設以後代々森田勘弥座元務め安政3年1856)守田座と改めた明治5年1872猿若町から新富町移転し、同8年新富座改称


守田座

読み方:モリタザ(moritaza)

江戸時代明治初年歌舞伎劇場。


守田座

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/18 17:26 UTC 版)

木挽町森田座の様子(寛政年間
江戸森田座/守田座の定式幕(黒-柿色-萌葱)
猿若町守田座跡の碑
(2016年9月撮影)

森田座守田座(もりた ざ)は、江戸にあった歌舞伎の芝居小屋で、江戸三座のひとつ。座元は森田/守田)勘彌代々。控櫓河原崎座

万治3年(1660年)、森田太郎兵衛(初代森田勘彌)木挽町五丁目(現在の中央区銀座6丁目、北緯35度40分7.5秒 東経139度45分55.5秒)に森田座を開場した。

森田座の経営は不安定で、資金繰りに行き詰まっては破綻・休座して控櫓の河原崎座に代興行権を委ねることが多く、時には20年近くにわたって河原崎座が興行していたこともあった。天保14年(1843年)に天保の改革で木挽町から猿若町(現在の台東区浅草6丁目、北緯35度43分2.5秒 東経139度48分2.7秒)へ移転させられた時も3度目の休座中で、実際に引っ越し一切を行ったのは河原崎座だった。

安政3年(1856年)5月に河原崎座が失火で全焼すると十一代目森田勘彌によって森田座が再興され、その2年後には「森の下に田んぼ」では陽当たりが悪く実りが悪いのも当然で、これを「田を守る」に改めればきっと勝手口も改善するにちがいない」とのをかついで名称を森田座から守田座に改称、これにともない姓の森田も守田に改めた。明治5年(1872年)にはやはり「新しい富を求める」という験かつぎで、新富町(現在の中央区新富2丁目、北緯35度40分16.6秒 東経139度46分25.4秒)へ移転し、3年後の明治8年(1875年)には座名も新富座と改めている。

守田座の定式幕は左から「黒・柿色・萌葱色」の三色の引幕だった[1] 。これが現在東京歌舞伎座や京都南座をはじめとする多くの劇場で歌舞伎上演の際に使用される定式幕の組合せとなっている。

全ての座標を示した地図 - OSM
全座標を出力 - KML

脚注

  1. ^ 定式幕 - 歌舞伎 今日のことば・ことばで知る歌舞伎の世界 - 歌舞伎美人

外部リンク




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「守田座」の関連用語

守田座のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



守田座のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの守田座 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS