鹿塩川
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 04:50 UTC 版)
鹿塩川・概略図 分杭峠 国道152号 大花沢 地獄谷 手開沢 黒川沢 塩川 小渋川 鹿塩川(かしおがわ)は小渋川の支流である。中央構造線上の分杭峠に発し、構造線に沿って南流し、小渋川に合流する。この合流点で小渋川は西へ向きを変える。 鹿塩川の最大の支流は塩川といい、烏帽子岳(2726m)にある三伏峠(2607m)や本谷山(2658m)を源流としている。塩川源流から三伏峠へ登るルートは南アルプス縦走の玄関口として多くの登山者が利用する。 三六災害の際には鹿塩川方面でも大被害が出ており、規模の面では最大の土砂崩れが発生している。鹿塩川の流域では51戸の家屋が失われ、13名の死者行方不明者を出した。 鹿塩温泉 塩川沿いの鹿塩温泉は、源泉1kg中の塩分が25.85gという海水に匹敵する高濃度の食塩泉で、古来から塩の産地として栄えていた。遺跡の分布は鹿塩川流域の歴史が縄文時代にまでさかのぼることを示しており、諏訪地方と東海地方沿岸部の最短路である秋葉街道の要地だったと考えられている。1300年頃に成立した『吾妻鏡』にも「大河原鹿塩」として登場する。濃い塩分のため、昔から漬物など食用にも利用されている。明治初期から末期には、日本では珍しい井塩を原料とする製塩工場が操業され、明治中期からは、井塩からの鉱泉を利用して保養温泉も営まれるようになった。岩塩の採掘も試みられたが不首尾に終わり、この塩泉の塩分が何に由来するのかはいまもわかっていない。(詳細は鹿塩温泉参照。) 鹿塩マイロナイト 中央構造線に沿う鹿塩川流域では、構造線を挟んだ両側からの強い圧力によって岩盤が粉砕され、幅500mから1500mわたって圧砕帯が形成されている。これを鹿塩構造体と呼ぶ。この圧砕帯では、領家変成帯の古い花崗閃緑岩が砕かれて圧砕岩と珪質岩になっており、「鹿塩片麻岩(鹿塩マイロナイト)」とも呼ばれている。これは白亜紀後期の中央構造線でもっとも古い時代の活動を示すものと考えられており、中央構造線の活動期の最初期はこの地の名を冠して「鹿塩時階」と命名されている。 北川露頭 鹿塩川の上流で、分杭峠の麓にあたる北川地区でも中央構造線の大露頭があり、天然記念物「大鹿村の中央構造線(北川露頭・安康露頭)」になっている。ここでは三波川帯の黄緑色の岩と領家帯の赤い鹿塩片麻岩(鹿塩マイロナイト)のくっきりとした境目を間近に見ることができ、一般人が中央構造線を容易に観察できる場所としては最良の地と評価されている。 北川の三六災害 北川地区は明治時代に開拓されたことがある。もともとは明治初期に木材伐採が行われたのが始まりで、木地屋の集落が形成され、伐採後の緩斜面の農耕も始まった。明治から大正にかけては桑畑が広がり、養蚕で栄えて最盛期には110戸を数え、秋葉街道の運送馬車のために馬宿も営まれた。 1961年(昭和36年)の三六災害の頃には養蚕業の低迷で39戸にまで減っていたが、この時の鉄砲水と土砂崩れによってその全てが失われ、さらに桑園、学校、橋も喪失した。人的被害の観点では小渋川の大西山崩壊のほうが遥かに被害が大きかったが、土砂崩れの規模でいえば北川地区が最大だった。他方面への連絡路も全て失われたため、北川地区の被災状況が詳しく知られるまでは数日を要し、それまで住まいを失った全住民は山間地で散り散りになってのサバイバルを余儀なくされた。地区全体が壊滅した北川の再興は不可能で、全戸転出して無人となった。
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