大西山の崩壊
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この構造線の西側(伊那山地)は風化した花崗岩やマイロナイト(鹿塩マイロナイト、鹿塩片麻岩)を中心とした山地で、特に地質が脆い。このため小渋川中流の左岸は山崩れを起こしやすく、青木川の合流地点ではかつて大規模な崩落で甚大な被害を出したことがある。1961年(昭和36年)の梅雨と台風による集中豪雨で、青木川の左岸に聳える大西山(1741m)の山腹が高さ450m、幅500m、厚さ15mにわたって崩壊した。 これによっておよそ320万m3 に及ぶ土砂によって2つの集落が飲み込まれ、死者行方不明者42名、重軽傷者642名の被害を出した。失われた家屋は39戸、水田も30町あまりが失われた。これは中央構造線上で起きた土砂災害としては最悪のものである。 大崩落が起きたのは6月29日の朝9時10分と記録されている。このとき鉄筋コンクリート製の小中学校の体育館にも土砂が押し寄せて破壊された。普段であれば体育の授業中のはずだったが、臨時休校としていたために児童への被害は免れた。破壊された家屋は土砂に飲み込まれたものだけでなく、山の崩壊に伴う突風によって倒壊したものもあった。このほか支流の滝沢川や田島沢沿いでも、集落が三六災害によって無人になった。 この豪雨では小渋川の流域ではほかにも近隣で山崩れが起きたほか、伊那谷のあちこちで甚大な被害を出した。これが昭和36年に起きたことから長野県ではこれを「三六災害」と称し、今でも毎年土砂災害対策を振り返る日となっている。大鹿村では、災害以前にあった集落は全戸移転してしまい、これが村の過疎化に拍車をかけることになった。崩壊地は「賽の河原」と化したが、のちに3000本の桜が植樹されて大西公園となり、今では桜の名所として親しまれている。
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大西山の崩壊
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「昭和36年梅雨前線豪雨」の記事における「大西山の崩壊」の解説
6月29日午前9時10分頃、下伊那郡大鹿村の大西山(1741メートル)が、当時は山裾を流れていた小渋川(天竜川水系)に向かって山体崩壊(トップリング)し、川の水を巻き込んだ土砂は一瞬にして対岸の集落を呑み込んだ。崩落範囲は高さ450メートル、幅280メートルで、大量の土砂(推定280万〜350万立方メートル)の突端は現在の国道152号を越える付近まで到達したという。この崩落により田畑や分教場などと共に39戸が土砂に呑まれ、死者42名を出した。またそれまでの豪雨によるものも含めると大鹿村だけで500戸以上が被害を受けた。(小渋川#大西山の崩壊、小渋川#鹿塩川も参照。)
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