馬廻時代
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福富氏は元は美濃国山県郡福富の出身で、清和源氏土岐氏支流の明智氏の一族と言われる。『張州府誌』によれば、秀勝は尾張国愛知郡岩塚村の人という。福富貞家(平太郎)の子。妻は朝倉景紀の娘。 父の代に尾張に移住して織田家に仕えたという。永禄4年(1562年)、西美濃での軽海の戦いに参加。永禄年間に赤母衣衆に追加選抜され、その後は一貫して馬廻衆として仕え、信長の出陣したほとんどの合戦に従軍したと考えられる。 永禄12年(1569年)8月の大河内城の戦いでは、「尺限廻番衆」24人の1人として包囲の柵の警戒にあたった。元亀元年(1570年)4月には朝倉氏攻めに従軍。同年8月には南方陣に参加して、大坂の守口近郊で一揆と交戦している。 天正元年(1573年)、8月13日の刀根坂の戦いの追撃戦で活躍。12月26日、佐久間信盛、毛利長秀と共に多聞山城受け取り奉行となり、翌年には同城の定番となった。天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは佐々成政・前田利家・野々村正成・塙直政と共に鉄砲奉行を務めて鉄砲隊を指揮した。 天正5年(1577年)2月からの雑賀攻めにも従軍。ただしこれを最後に、以後は信長が軍の指揮を離れたために、その馬廻である秀勝も、戦場に出る事よりも中央で政務を担当する事が多くなり始めて、副状の発給などが以前より多く見られるようになる。
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馬廻時代
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長頼は織田信房の子として生まれた。幼名は長であったという。生まれた時期は明確ではないが、史書には1560年代後半に菅屋九右衛門として登場しており、若い頃から織田信長に仕えていたと考えられる。 初見は山科言継の『言継卿記』における永禄12年(1569年)3月16日条が初見で、この時、岐阜を訪れた言継を織田信広・飯尾尚清・大津長昌らと共に接待し、山科家の知行地の目録を委ねられている。 同年8月の伊勢大河内城攻めで、「尺限廻番衆」として前田利家・塙直政・福富秀勝・河尻秀隆・中川重政などとともに戦っている。 元亀元年(1570年)6月には姉川の戦い前に近江北部に布陣している様子が確認できるが、同年8月24日には京都に戻っていたようで、本能寺で宿泊中であった信長に礼参した吉田兼見から20疋を贈呈されている。この時、同じく奏者を務めた塙直政も受け取ったのは同額の20疋であり、地位は同じく馬廻であったが赤母衣衆に選抜されていた塙と同等の扱いを受けており、長頼の地位もただの馬廻より高位であったことが伺える。同年9月の志賀の陣に参陣したが、この時、馬廻ながら足利義昭への使いを務めたり、陣中を訪れた山科言継を取り付いだりしているため、前線には出ず信長の傍らで側近のような役割をしていたと思われる。 同年10月20日、信長より使いに出され、朝倉義景陣中へと赴き織田軍との決戦に応じるように促したが不調に終わった。
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