馬廻時代とは? わかりやすく解説

馬廻時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 06:22 UTC 版)

福富秀勝」の記事における「馬廻時代」の解説

福富氏は元は美濃国山県郡福富出身で、清和源氏土岐氏支流明智氏一族と言われる。『張州府誌』によれば、秀勝は尾張国愛知郡岩塚村の人という。福富貞家平太郎)の子。妻は朝倉景紀娘。 父の代に尾張移住して織田家仕えたという。永禄4年1562年)、西美濃での軽海戦い参加永禄年間赤母衣衆追加選抜されその後一貫して馬廻衆として仕え信長出陣したほとんどの合戦従軍した考えられる永禄12年1569年8月大河内城の戦いでは、「尺限廻番衆24人の1人として包囲の柵の警戒あたった元亀元年1570年4月には朝倉氏攻め従軍同年8月には南方陣に参加して大坂守口近郊一揆交戦している。 天正元年1573年)、8月13日刀根坂の戦い追撃戦活躍12月26日佐久間信盛毛利長秀と共に多聞山城受け取り奉行となり、翌年には同城の定番となった天正3年1575年5月長篠の戦いでは佐々成政前田利家野々村正成塙直政と共に鉄砲奉行務めて鉄砲隊指揮した天正5年1577年2月からの雑賀攻めにも従軍。ただしこれを最後に以後信長が軍の指揮離れたために、その馬廻である秀勝も、戦場に出る事よりも中央政務担当する事が多くなり始めて副状発給などが以前より多く見られるうになる

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馬廻時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 09:12 UTC 版)

菅屋長頼」の記事における「馬廻時代」の解説

長頼は織田信房の子として生まれた幼名は長であったという。生まれた時期は明確ではないが、史書には1560年代後半屋九右衛門として登場しており、若い頃から織田信長仕えていたと考えられる初見山科言継の『言継卿記』における永禄12年1569年3月16日条が初見で、この時、岐阜訪れた言継を織田信広飯尾尚清大津長昌と共に接待し、山科家知行地目録委ねられている。 同年8月伊勢大河内城攻めで、「尺限廻番衆」として前田利家塙直政福富秀勝河尻秀隆中川重政などとともに戦っている。 元亀元年1570年6月には姉川の戦い前に近江北部布陣している様子確認できるが、同年8月24日には京都戻っていたようで、本能寺宿泊であった信長に礼参した吉田兼見から20疋を贈呈されている。この時、同じく奏者務めた塙直政受け取ったのは同額20疋であり、地位同じく馬廻であった赤母衣衆選抜されていた塙と同等扱い受けており、長頼の地位もただの馬廻より高位であったことが伺える。同年9月志賀の陣に参陣したが、この時、馬廻ながら足利義昭への使い務めたり、陣中訪れた山科言継取り付いだりしているため、前線には出ず信長傍ら側近のような役割をしていたと思われる同年10月20日信長より使い出され朝倉義景陣中へと赴き織田軍との決戦応じるように促した不調に終わった

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