飛行試験概要
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1942年12月26日、各務原飛行場にて初飛行に成功するが、引込脚の動作不良、エンジンオイルの温度過昇が発生した。1943年1月17日から行われた二回目以降の飛行試験でも、プロペラピッチ可変機構の故障、計器類の不調、昇降舵のフラッター発生等不具合が発生し、その都度改修を加えていった。特にエンジンオイルの冷却不足はカウリングの表面冷却器だけでは対応しきれず、4つあるラジエータの内一つをオイルクーラーに変更する等、数回に渡って改修を要した。 飛行特性は、各舵の効きも良く、宙返りや横転もこなせたが、離陸時にプロペラトルクの反作用で左に傾く癖があった。着陸速度は親子式フラップの効果が大きく155 km/hにまで抑えられたが、層流翼故の失速の早さに備え、170 km/hで接地を行うようにした。 また非常に高い上昇性能を示したが、全力での上昇試験は行っていないので記録上の上昇率は19.1 m/秒にとどまる。しかしテストパイロットによると計器読みで30 m/秒に達したことがあると言う。 1943年(昭和18年)10月5日の第二十四回飛行試験でエンジンに振動が発生した為、二度目のエンジン換装を行ったのを最後に大きなトラブルは発生せず、12月には全速試験を開始した。12月27日、第三十一回目の飛行試験は、機体表面の凹凸をカバーする為、部分的なパテ埋めと、全面塗装を施し、風防天蓋を装着した状態で行い、計器指示速度682 km/hを出し、計器誤差修正した真速度は日本のレシプロ機中最速となる699.9 km/hを記録した。 1944年(昭和19年)1月11日、第三十二回目の飛行試験が最後の飛行となった。その後、陸軍航空審査部の多摩飛行場に移動する予定だったが、着陸速度が高く降下角が深く取れない研三には、多摩飛行場周囲の雑木林が障害になること等から実行せず、そのまま各務原飛行場で終戦を迎えた。 その後、進駐してきた米軍の車両に踏み潰されてスクラップにされる研三の写真が残されている。 設計を担当した東京帝国大学航空研究所員の山本峰雄(1903年 - 1979年)の家族が国立科学博物館に寄贈した資料から、第三十一回試験飛行の模様を撮影した映画フィルムが2020年に発見され、同年2月に岐阜かかみがはら航空宇宙博物館で公開される。
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