音節文字表の創造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/10/07 07:17 UTC 版)
当時のインディアンたちは白人たちの「書くこと」に感銘を受けており、文書を「喋る葉」と呼んだ。銀細工師として、シクウォイアは周辺の白人入植者と交流があり、彼も「書くこと」に感銘を受けたひとりだった。しかしシクウォイアは英語を理解しなかったため、当然ながら白人が何を書いているかも理解できなかったものの、その有用性は認め、自ら簡単な絵や図柄を「描く」ことで、顧客のツケを記録する方法を生み出した。やがてその図柄を点や線の記号へと発展させ、帳簿をつけるまでになった。 1809年ごろ、シクウォイアはチェロキー語を書き表すシステムの創造に取りかかった。はじめ彼は表意文字を志向していた。畑を放棄してそれに1年の時間をかけたため、彼の友人や隣人は彼が正気を失ったと見なした。妻はシクウォイアの初期の成果を、悪い魔法だと信じて燃やしてしまったと言われている。しかしながら表意文字では、数千もの文字を作ってもまだ不十分であり、シクウォイアはこの方法を諦めざるを得なかった。 表意文字を諦めたシクウォイアは、チェロキー語には有限個の音素があり、どの単語もそれら音素の組み合わせで構成されている事に気づいた。つまり表音文字を創作するという方式に、独自の考察で辿り着いたのである。当初は200文字以上を作ってみたものの、その後シクウォイアは音素には母音と子音の区別がある事に気づき、1ヶ月ほどで86文字からなる文字体系を完成させた。ただし音素文字ではなく、音節文字となっている。文字を創作するにあたって、20字ほど白人の小学校教師から譲り受けたラテン・アルファベットの綴り字の教科書から借用し、それ以外の文字もアルファベットを元に創作して付け加えたため、字のデザインはアルファベットと酷似している。一方で前述の通りシクウォイアが英語を全く解さなかったため、発音は元のアルファベットとは全く異なるものとなっている。中にはアラビア数字を文字として借用した例もある。チェロキー文字を研究した学者Janine Scancarelliは次のように述べている。「この音節文字の多くはラテン・アルファベット、キリル文字、ギリシア文字、もしくはアラビア数字と似た外観をしているが、音価には全く関連性がない。」。 この文字を学びたがる者が見つからなかったため、シクウォイアはこれを自分の娘Ayokeh(Ayokaとも)に教え込んだ。その後、若干のチェロキーが入植していた地方(現アーカンソー州)へ旅行し、そこの指導者たちに自分の音節文字の有用性を納得させようと試みた。彼らは記号というものを単に記憶を補助する限定的な機能しか持たないと信じており、シクウォイアの話を信じなかった。彼は各人に1単語を言わせ、それを書きとめ、そして娘を呼んでそれを逆順で読ませた。このデモンストレーションで説得された指導者たちは、シクウォイアが数人(ないしそれ以上)の村人にチェロキー文字を教えることを許可した。文字の伝授には数ヶ月が掛かったが、その間に彼が生徒たちを魔術のために利用しているという噂が流れた。レッスンの完了後、シクウォイアは更にテストされた。各生徒に口述筆記をさせ、それを読むというテストである。この結果、アーカンソーのチェロキー族はシクウォイアが実用的な書記体系を作り出したと納得した。 彼はアーカンソーのチェロキー指導者の1人の演説を書きとめ、封筒に入れ、それを携えて東部に戻った。それを読み聞かせれば東部のチェロキーも自分の文字を学ぶようになると彼は確信しており、それ以降、チェロキー文字は急速に広がった。 1825年にチェロキー・ネイションは公式にこの書記体系を採用した。1828年から34年にかけて、シクウォイアの音節文字を使った新聞『チェロキー・フェニックス』(Cherokee Phoenix)が刊行された。これはチェロキー・ネイション初の新聞であり、英語とチェロキー語の文章が併記された。 チェロキー文字に関する具体的な説明はチェロキー文字の項目も参照。
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