音楽の保護者として
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帰国後は麻布区飯倉町の本邸を離れ、芝区白金三光町(現在の東京都港区白金)の新邸に入り、1916年(大正5年)7月25日に公爵島津忠重の妹・為子と結婚した。飯倉町の本邸で挙行された結婚式には、旧藩関係者を代表して紀州徳川家からは鎌田栄吉夫妻と下村宏夫妻が、島津家からは松方正義夫妻と東郷平八郎夫妻が出席した。為子との結婚生活は仲睦まじいものであったという。 第一次世界大戦の影響でトーマスの設計図の到着は遅れていたが、1916年(大正5年)秋にようやく頼貞の手元に届いた。この設計図はケンブリッジ大学のキングス・カレッジの教会を参考にした造りにするという頼貞の理想に適っていたものの、日匹信亮は日本の気候風土に合わせた修正が必要だと助言したため、頼貞は近江八幡在住のウィリアム・メレル・ヴォーリズに設計図の修正を依頼した。 ヴォーリズの設計図が完成を見たのは1917年(大正6年)春のことである。頼貞は早速計画を実行に移し、同年3月24日には地鎮祭を行っている。建設工事は戸田組に発注し、翌1918年(大正7年)7月30日に音楽堂は竣工した。内装工事の完了後、吉日を選んで同年10月27日に南葵楽堂として開堂式が挙行された。来賓に宮内大臣波多野敬直や東京帝国大学総長山川健次郎、早稲田大学総長大隈重信らを招く盛大な式典であった。 南葵楽堂の地下室に設けられた南葵音楽文庫は1917年(大正6年)にロンドンで落札した「カミングス・コレクション」を母体とする貴重資料を多く含み、世界的にも屈指の音楽書や楽譜のコレクションとして知られた。1923年(大正12年)、関東大震災による南葵楽堂の閉鎖のため一時期活動を休止。1924年(大正13年)からは「南葵音楽図書館」として再開されたものの、1932年(昭和7年)には紀州徳川家の財政事情のために閉館となった。南葵音楽文庫の活動時期は短かったが、若き日の深井史郎や吉田隆子らが通って独学をするなど、戦前における西洋音楽のパトロンとして頼貞の果たした役割は大きかった。1921年(大正10年)、ケンブリッジ大学音楽図書館などを経営[要出典]。1923年(大正12年)、イタリアから3年ぶりで日本に帰国した当時無名の藤原義江のコンサートを計画・支援。 1919年(大正8年)初頭、宮内省式部職に採用願書を提出する意志を持っていたが、父の理解を得られなかったために就職の話は流れている。 待望のパイプオルガンは1920年(大正9年)に横浜港に到着したが、税関では建築材料と誤解されて高額な関税が掛けられそうになったため、頼貞は文部大臣勝田主計に教育品として無関税にするよう直談判している。頼貞の努力でパイプオルガンは無事に税関を通過したものの、当時の日本にこれを組み立てることができる技術者は存在しなかった。仕方なくアボット・スミス社の技師を呼び寄せ、東京商科大学のエドワード・ガントレットの協力を仰いだ。また、パイプオルガン研究を独自に行っていた日本楽器製造(現在のヤマハ)の斎藤技師長が助手として招聘され、同年7月に始まったオルガン設置工事は11月初旬に完了した。同年11月22日に披露演奏会を開催する予定で入場券を一般にも配付したが、希望者が殺到して所轄警察署から警官隊が派遣されるほどであり、係員が予定していた300枚の倍に当たる600枚を配付してしまったため、11月23日にも引き続き演奏会が行われることとなった。第1日目の演奏会には大叔父の伏見宮貞愛親王や閑院宮載仁親王、東伏見宮妃周子、義姉の久邇宮妃俔子、梨本宮守正王夫妻など、皇族28名の臨席を賜っている。
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