音楽の仕事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 05:56 UTC 版)
ティンパンアレーで書くことにする。複数の音楽出版社と契約。最初のクレジットとされるのは1931年の"In Love with the Memory of You"で作曲はウィリアム・シューマンだった。1934年に"Junk Man"と"I Wish I Were Twins"がヒット。作曲は両方ジョー・メイヤー(英語版)で、後者はエディ・ドゥランジュ(英語版)とともに詞を書いたものだった。しかし、評判は高まらず、後年のレッサーはこの2曲に触れなかった。 1930年代半ばに作曲家Irving Actmanの伴奏でナイトクラブで歌っていた。この時期レオ・ファイスト社(英語版)のスタッフとしてJoseph Brandfonの曲に詞をつけて週給40ドルを稼いでいた。1年後、出版人や演奏家からの評価が高まってきたころに解雇された。1936年に相方Irving Actmanと共作したブロードウェイのレヴューThe Illustrator’s Showは大コケ、四日で打ち切られた。 同作に出演していた女優と1936に結婚した。 ユニバーサル映画との半年の歌手契約が終わると1936年に妻とハリウッドに引っ越した。次にパラマウント映画と半年契約。 パラマウントでの最初の曲は1937年の"Moon of Manakoora"(作曲:アルフレッド・ニューマン、歌:ドロシー・ラムーア)で、映画『ハリケーン』に使われた。 この時期たくさん書いており、『Two Sleepy People』 、『Heart and Soul』、後にエラ・フィッツジェラルドが歌った『I Hear Music』などを書いている。また、ニューマン、アーサー・シュワルツ、バートン・レイン(英語版)、ホーギー・カーマイケル、フレデリック・ホランダー(英語版)、Joseph J. Lilleyらとも共作していた。 映画『砂塵』 (1939)からは"See What the Boys in the Back Room Will Have"(ホランダー作曲・マレーネ・ディートリヒ歌唱)が生まれた。 『I Don't Want to Walk Without You』(作曲:ジューリー・スタイン)は1941年に出版、1942年映画『セーター・ガール(英語版)』でベティー・ジェーン・ローズ(英語版)が歌った。 アーヴィング・バーリンは同曲に夢中になり、「これこそ僕がずっと書きたかった最も偉大な曲だ!」とレッサーに告げた。 第二次世界大戦が始まるまでハリウッドに滞在したのち、空軍に入った。
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