韓国・北朝鮮の主張の概略
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「竹島問題」の記事における「韓国・北朝鮮の主張の概略」の解説
詳細は「#争点」を参照 韓国側の主張によれば、現在の竹島(独島)は古代から于山島の名で知られている韓国の領土であり、1696年には朝鮮の安龍福が現在の竹島から日本人を追い返し日本に渡り幕府に抗議した。その後、幕府は鬱陵島(当時の竹島)と現在の竹島(当時は松島)を放棄したと判断している(日本側は鬱陵島は放棄したが、竹島は放棄していないという立場を採っている)。また、1877年(明治10年)に日本側の明治政府は太政官指令により鬱陵島と現在の竹島(松島)を日本の領土から除外しており、その後1900年に大韓帝国勅令第41号が官報に掲載され、竹島(独島)は石島という名で鬱島郡(=現、鬱陵郡)の管轄となったとしている。日本側が領有の根拠のひとつにあげている1905年(明治38年)の竹島編入については、日本の「韓国侵略」の過程で行われたものであり、無効であると主張している。 なお、「解放」後の韓国政府は、戦後処理のうち帰属財産問題と対日賠償請求に特に力点を置いており、領土問題としては、竹島ではなく長崎県対馬の「返還」を、しばしば日本に対して要求していた。1948年1月23日、南朝鮮過渡立法委院委員60名が「対馬島返還要請願書」に署名して提出し、2月17日の韓国国会でも来たる対日講和会議では対馬島「返還」の提案が立議された。李承晩は、大韓民国政府樹立直後の1948年8月17日の記者会見において「対馬は韓国領」との声明を発表し、9月10日には大統領特使も東京での会見で「対馬は韓国に帰属すべき」と発言した。1949年年頭の記者会見でも李承晩は「対馬を返還すべき」として、対馬領有権を強く主張したが竹島への言及はなかった。竹島については、米軍政期にあっても韓国の地図や文献には竹島は描かれておらず、この時期の地理の教科書や地図では韓国領土の東限を鬱陵島としており、竹島を領土外とする状態が長くつづいた。「独島」返還要求は、1948年8月5日の憂国老人会という民間団体がマッカーサーに送った請願書の中で、対馬とともに「独島」と波浪島という実在しない島の返還を求めたのが最初であった。 北朝鮮の立場 北朝鮮による領有権の主張は、もっぱら韓国による竹島の実効支配を支持するという形で行われている。北朝鮮は竹島が軍事境界線以北に属するとは主張しておらず、黄海における北方限界線問題のような実効支配をめぐる南北間の対立は存在しない。 「于山」の名が残る朝鮮の古地図 『新増東国輿地勝覧』(1530)の付属地図「朝鮮八道総図」部分 1628年の地図(地図の東側、鬱陵島と朝鮮半島の間に于山島がある) 1600年代後半の地図(地図の東側、鬱陵島と朝鮮半島の間に于山島がある) 『廣輿圖』(1737-1776)(鬱陵島の東側に"所謂于山"と書かれた島が隣接している) 金正浩『大東輿地図』(1861)、部分(鬱陵島の東側に"于山"と書かれた島が隣接している) 官撰『大韓地誌』(1899)「大韓全図」部分(鬱陵島の右側に于山と書かれている)
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