電力会社時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/21 00:40 UTC 版)
上記の通り福博電気軌道の軌道事業は九州電灯鉄道へと引き継がれたが、同社の主力事業は電気供給事業であり、同事業が拡大し続けたことで総収入に占める軌道事業収入(1913年より佐賀県の唐津軌道を含む)の割合は徐々に小さくなり、1916年(大正5年)以降は1割以下となった。電力業界の再編はその後も続き、1921年(大正10年)12月に九州電灯鉄道の経営陣が愛知県の電力会社関西電気(旧・名古屋電灯)に乗り込み、翌1922年(大正11年)5月には九州電灯鉄道を関西電気に合併させた。そして同年6月関西電気が社名を変更したことで、東海地方と九州地方を供給区域とする資本金1億円超の電力会社、東邦電力株式会社が発足した。 九州電灯鉄道時代の福博電車は乗客数が著しく増加しており、年間乗客数は1915年度(大正4年度)に1千万人を突破し。その後も伸び続けて1919年度(大正8年度)には2千万人に達し、1921年度(大正10年度)には3千万人となっている。この間の1921年6月5日、箱崎から東へ工科大学前までの路線延伸区間約750メートルが営業を開始した。東邦電力時代になると乗客数の伸びは停滞し、景気の変動に連動して年間3千万人前後で推移した。 1927年(昭和2年)、九州水力電気では福岡市渡辺通一丁目から西新町に至る新線(城南線)を建設、福博電車を挟むが直接の連絡がなかった市内環状線と北筑線(1922年より一部区間で電車運転)を接続した。また1929年(昭和4年)にはこれらの3路線を分社化し博多電気軌道(2代目)へと経営を移管している。同時期、東邦電力でも福博電車線を傘下の鉄道事業者九州鉄道(現在の西鉄天神大牟田線にあたる路線を建設)へと譲渡する計画を立てたが実現していない。 1932年(昭和7年)になり、東邦電力では木造の今川橋を架け替えて橋を挟んで線路が途切れている福博電車線と北筑線を接続させる計画を実行に移し、今川橋東詰(福岡市西新町新地)から城南線との接続地点である西新町へ至る路線および軌道敷設特許を3月18日付で博多電気軌道より2万6000円にて買収。3月25日より今川橋停留場から西新町停留場に至る区間での営業を開始した。従来は全線単線であったが東邦電力により複線化され、暫定的に単線で開通した橋の部分も後に複線化されている。この路線延伸によって東邦電力福博電車線の営業キロは合計9.3キロメートルとなった。
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