閣僚・自由民主党幹部を歴任
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「田中角栄」の記事における「閣僚・自由民主党幹部を歴任」の解説
1957年(昭和32年)7月 - 第1次岸信介改造内閣で郵政大臣に就任。戦後、初めて30歳代での国務大臣に就任した。テレビ局と新聞社の統合系列化を推し進め、その強力な権力と指導力により、現在の新聞社 - キー局 - ネット局体制の民間放送の原型を完成させる。その過程で官僚のみならず報道機関も掌握した。特に民放テレビ局の放送免許(とりわけ地方テレビ局の無線局免許状交付の可否)を郵政省の影響下に置いたことは、その後の田中に飛躍の原動力になった。 1961年(昭和36年)7月 - 自由民主党政務調査会長。 1962年(昭和37年)7月 - 第2次池田勇人内閣の改造で大蔵大臣。雪は春に溶けるからと災害に認められていなかった豪雪のサンパチ豪雪に、田中角栄大蔵大臣が初めて災害救助法を適用させた。第1次佐藤栄作内閣まで留任。 1965年(昭和40年)6月 - 大蔵大臣を辞任し、自由民主党幹事長に就任。 1966年(昭和41年)6月 - 社団法人日本空手協会会長に就任。(1968年5月辞任) 12月 - 幹事長を辞任。 1968年(昭和43年)5月 - 自民党都市政策調査会長として「都市政策大綱」を発表。 11月 - 幹事長に復帰。 1969年(昭和44年)4月 - 眞紀子が鈴木直人元衆議院議員の三男、直紀と結婚。直紀は田中家に婿入り。 8月 - 大学の運営に関する臨時措置法(大学管理法)成立を働きかけ、大学紛争を収束に導く。 1970年(昭和45年)9月 - 産経新聞の購読を通じた党への支持を求める幹事長通達を、「取扱注意・親展」で全国の県支部連合会と支部(党所属衆議院議員)に出していたことが発覚。11月4日の参議院決算委員会で和田静夫に取り上げられた。 1971年(昭和46年)7月 - 第3次佐藤栄作内閣の改造で通商産業大臣。 10月 - 日米繊維交渉が決着。 1972年(昭和47年)5月9日 - 佐藤派から81人の議員を引き連れ、派内派(田中派)を結成。 6月 - 『日本列島改造論』を発表。 7月5日 - 佐藤栄作が支持した福田赳夫を破り自由民主党総裁に就任。 7月6日 - 第1次田中内閣が成立。初の大正生まれの首相であり史上初の新潟県出身の首相である。各種機関の内閣支持率調査で70%前後の支持を集める。なお、田中の次の大正生まれの首相は5代後の中曽根康弘。
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