長崎県立長崎高等女学校
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長崎県立長崎高等女学校(ながさきけんりつながさきこうとうじょがっこう)は、明治期、長崎県に設立された旧制の高等女学校。略称は「県女(けんじょ)」。
- ^ 東高の沿革 - 長崎県立長崎東中学校・高等学校ウェブサイト
- ^ 長崎西高校の誕生と校風の樹立について - 長崎東高在京同窓会
- ^ 高木與作による。その功績をたたえて建立された高木與作翁頌善碑が「校舎跡地公園」内にある。
- ^ a b 支部を東京、京都、大阪、熊本、佐賀に置いていた。外地支部(支那、京城、台湾)もあったが、終戦に伴い解消。
- ^ 和服時代は筒袖の和服に海老茶色の袴、つま先割れの黒い靴下を着用。この海老茶色の袴によって、この当時の県立女学校の生徒は紫式部をもじって海老茶式部と呼ばれていた。
- ^ 夏服は「白ポプリン(約40番手ぐらいの単糸を使い、やや緯畝(よこうね)のある平織に織った織物)。黒碁盤柄ワンピース」、冬服は「ベルト付き上着(紺色サージ)、襞スカート(紺色サージ)」
- ^ 国文科専攻科に関しては5年制の高等女学校卒業が入学資格として規定されていたため、4年制であった長崎県立長崎高等女学校を卒業しただけでは国文科専攻科に進学することができなかった。これを解消するために予科(修業年限1年)を設置して国文科専攻科への進学を可能とした。
- ^ 白七分袖、グレーの袖に黒の細いリボン付きブラウス型にする。
- ^ 開校当初は温泉(うんぜん、雲仙)・島原への1泊2日の旅行であったが、次第に宿泊日数が長くなり、目的地も京都・伊勢・箱根といったように遠距離の場所になっていった。
- ^ 原爆で大きな被害を受け授業再開が困難であった活水女学校(現活水中学校・高等学校)が県立女学校の校舎を使用。2部授業を行う(午前が県立女学校、午後が活水女学校)。
- ^ 長崎県立長崎高等学校、長崎県立瓊浦高等学校、長崎市立女子高等学校
- ^ 一部の生徒は長崎市立片淵中学校に振り分けられた。(長崎市立片淵中学校の沿革史に西山中学校を統合するとの記述がある。)
- ^ 現在の長崎市立上長崎小学校の裏手にあり、普段は施錠してある。立ち入りには長崎東高等学校事務局への事前連絡が必要。
- ^ 長崎東高等学校初代校長も務めた。
- 1 長崎県立長崎高等女学校とは
- 2 長崎県立長崎高等女学校の概要
- 3 生徒会活動・部活動
- 4 著名な出身者
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