長 連龍とは? わかりやすく解説

長 連龍(ちょう つらたつ) 1546~1619


長連龍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/01 07:54 UTC 版)

 
長 連龍
太平記拾遺十五:長九郎左衛門連竜(落合芳幾作)
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文15年8月15日1546年9月9日
死没 元和5年2月3日1619年3月18日
改名 萬松(幼名[1]、好連(初名)[1]→宗顒[1][2]法名)→連龍→如庵(戒名)
別名 仮名:九郎左衛門、孝恩寺[3]
戒名 東嶺良如庵主
墓所 東嶺寺(石川県七尾市
幕府 室町幕府江戸幕府
主君 畠山氏→織田信長前田利家利長利常
加賀藩人持組頭
氏族 長氏
父母 父:長続連、母:温井景長の娘
兄弟 綱連、杉山則直、連龍、飯川義実、連常、連盛
正室:長綱連女)、側室:新(神保氏張妹)、女(前田利家女)
好連頼連(連頼)
豕子(浅賀作左衛門室)、栗(前田利常側室)、竹(前田直知室)
テンプレートを表示

長 連龍(ちょう つらたつ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将織田家家臣、後に前田家の家臣。

主家・畠山家の滅亡の後に、長家も一族のほぼ全員が謀殺されて滅亡したが、連龍は織田信長に仕えて再興を果たした。信長没後は前田利家に仕え、利家を軍政両面で支えた。生涯41回の合戦に参加して名を馳せた。

生涯

能登畠山家の時代

天文15年(1546年)8月15日、能登畠山家の家臣・長続連の三男[1][2][4]として生まれる。幼名は萬松[1]。初名を好連[1]といった。

臨済宗の門に入り、能登国熊木定蓮寺の僧となり、宗顒[1][2]を称して、孝恩寺の住職になった[1]。以後、僧形でありながらも「孝恩寺」を通称として戦場に出た。

永禄12年(1569年)11月、温井景隆三宅長盛の帰参に畠山義隆[5]八代俊盛の3千の土地をあてがわせたのを不満にもって、八代親子が3千名の兵で乱を起こした際、孝恩寺・温井・三宅・松波常重は4千名をもって鶏塚にて合戦を行い、八代親子を敗死させた[6]

天正5年(1577年)5月、上杉謙信の侵攻を受けた際、7月18日、平子和泉、轡田肥後・唐人式部・板倉伝右衛門が穴水城救援に向かうと、孝恩寺は法衣をきて水軍を率いて迎撃し、乙ヶ崎合戦で大勝して首級70を取った[7]。閏7月、謙信が能登に軍を進めたために穴水城の包囲を解いた長続連は、自身が事実上の城主たる畠山家の居城・七尾城に籠城して上杉軍に取り囲まれた。23日、幼い畠山春王丸が病死して、守兵の士気が下がったので、長綱連は弟孝恩寺を密かに海路より織田信長のもとへ援軍要請に赴かせた。ところが26日に義春の叔父二本松義有も病死し、畠山家は宗室が絶えた。長綱連は一揆勢を扇動して上杉の背後を付かせようとしたが失敗し、9月になると七尾城は陥落は避けがたい状況になった。謙信は、上条政繁・長尾与次郎・島津淡路を使者として遊佐続光を内応させた。遊佐は温井・三宅兄弟と謀って、9月15日、続連、綱連、則直、連常、連盛ら長一族14人をことごとく謀殺した[8]。これによって(綱連の末子・菊末丸を除き)孝恩寺は一族の中で生き残ることになった。

織田家の時代

孝恩寺が織田軍と共に来援したときには、すでに一族の首は石川郡倉部浜に晒されており、援軍は遅きに失した。もはや畠山家も滅亡しており、信長に仕えて報復の機会を待つことになった。

天正6年(1578年)8月、孝恩寺は自ら兵500を集めて穴水城を奪取し、上杉家臣の当時七尾城主であった鯵坂長実や、織田家に属した神保氏張らと結び、遊佐氏らに対抗した。仇である遊佐らと戦を繰り返し、神保氏張らと共に能登越中を転戦した。遊佐・温井らによって七尾城の鯵坂が追放されると、柴田勝家に近づき、前田利家・佐久間盛政らとともに遊佐・温井らを攻めて、逐電した遊佐を追撃し、討ち取ることに成功した。能登が前田利家に与えられると、土肥親真らと共にその与力となった[9]

天正8年(1580年)1月10日、連龍に改名する。同年9月1日7月23日)、信長から所領を安堵された[1][9]

天正10年(1582年)の柴田勢による魚津城攻めにも従軍、一族の長景連が上杉方に属したため、これを撃破している。

加賀前田家の時代

同年6月2日の本能寺の変後は、そのまま前田利家の家臣となった。同年の石動山の戦いに参加し、その戦功により能登国内で3万1000石を与えられた[9]

天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いに参加して前田軍の殿軍を務め、この際に連龍の家臣30名余が討死した[9]

天正12年(1584年)の佐々成政による末森城攻めでは、利家の救援軍に属して華々しい活躍を挙げ[9]、利家に「抜群の活躍比類なし、真実頼もしく候」と賞されている。ただし、末森城の合戦に連龍は実際には参加しておらず、合戦後に危険を顧みずに駆けつけた点を利家から賞されている[9]

その後も小田原征伐朝鮮出兵に参陣し、また伏見城築城や宇治川の土木工事などにも参加し、いずれも功を挙げた[9]

慶長4年(1599年)に利家が死去すると、後継者の利長に仕え、翌年の関ヶ原の戦いでは北陸で丹羽長重と戦い、浅井畷の戦いでは敗れながらも奮戦した[9]

慶長11年(1606年)に家督を長子の好連に譲り隠居したが[1]、慶長16年(1611年)に好連が早世すると再び当主の座に復帰し、大坂の陣にも従軍した。これらの功績の数々から加増も受けて、長家は最終的に3万3000石の大身となる[9]

元和5年(1619年)2月3日、能登田鶴浜(現七尾市)にて死去[1]享年74[1](満72歳没)[9]。家督は次男の連頼が継いだ。以降、子孫は加賀前田家家老として3万3000石を領した。

人物像

前田利家は死去する直前に息子利長に遺書を与えているが、その中で連龍と高山右近は役に立つ人材であると評している[9]。また連龍は、前田家の主君だった織田信長に仕えて所領安堵をうけていたため、他の前田家臣と違って知行の面では独立大名のような強い権限を保持しており、加賀藩の中では「八家」と称される最上級の重臣となった[9]

系譜

関連作品

  • 小説「樋の水」吉原実 『北國文華』2022.6月夏号掲載

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l 長連三 1893, p.9
  2. ^ a b c 石川県 1933, p.890
  3. ^ 石川県 1933, p.934
  4. ^ 川口 2009, p. 68では次男とされているが、杉山伯耆守直光の養子となった次兄がいる。
  5. ^ または畠山義慶の誤記とも言う。
  6. ^ 石川県 1933, p.910
  7. ^ 石川県 1933, p.23
  8. ^ 石川県 1933, pp.922-928
  9. ^ a b c d e f g h i j k l 川口 2009, p. 69.
  10. ^ a b 『長氏家譜』による。

参考文献

関連項目


長連龍(ちょう つらたつ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:19 UTC 版)

センゴク」の記事における「長連龍(ちょう つらたつ)」の解説

通称九郎左衛門。続連の三男僧形をしている。父の名代として信長謁見七尾城への先導買って出るも、時すでに遅く政敵であった遊佐続光によって父兄謀殺される。その後浪人衆を率いて復讐挙兵遊佐一族誅殺した。

※この「長連龍(ちょう つらたつ)」の解説は、「センゴク」の解説の一部です。
「長連龍(ちょう つらたつ)」を含む「センゴク」の記事については、「センゴク」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「長 連龍」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ

「長 連龍」の例文・使い方・用例・文例

Weblio日本語例文用例辞書はプログラムで機械的に例文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「長 連龍」の関連用語

長 連龍のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



長 連龍のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
戦国武将覚書戦国武将覚書
Copyright (C) 2025 戦国武将覚書 All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの長連龍 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのセンゴク (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。
Tanaka Corpusのコンテンツは、特に明示されている場合を除いて、次のライセンスに従います:
 Creative Commons Attribution (CC-BY) 2.0 France.
この対訳データはCreative Commons Attribution 3.0 Unportedでライセンスされています。
浜島書店 Catch a Wave
Copyright © 1995-2025 Hamajima Shoten, Publishers. All rights reserved.
株式会社ベネッセコーポレーション株式会社ベネッセコーポレーション
Copyright © Benesse Holdings, Inc. All rights reserved.
研究社研究社
Copyright (c) 1995-2025 Kenkyusha Co., Ltd. All rights reserved.
日本語WordNet日本語WordNet
日本語ワードネット1.1版 (C) 情報通信研究機構, 2009-2010 License All rights reserved.
WordNet 3.0 Copyright 2006 by Princeton University. All rights reserved. License
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
「斎藤和英大辞典」斎藤秀三郎著、日外アソシエーツ辞書編集部編
EDRDGEDRDG
This page uses the JMdict dictionary files. These files are the property of the Electronic Dictionary Research and Development Group, and are used in conformance with the Group's licence.

©2025 GRAS Group, Inc.RSS