加賀前田家の時代
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同年6月2日の本能寺の変後は、そのまま前田利家の家臣となった。同年の石動山の戦いに参加し、その戦功により能登国内で3万1000石を与えられた。 天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いに参加して前田軍の殿軍を務め、この際に連龍の家臣30名余が討死した。 天正12年(1584年)の佐々成政による末森城攻めでは、利家の救援軍に属して華々しい活躍を挙げ、利家に「抜群の活躍比類なし、真実頼もしく候」と賞されている。ただし、末森城の合戦に連龍は実際には参加しておらず、合戦後に危険を顧みずに駆けつけた点を利家から賞されている。 その後も小田原征伐、朝鮮出兵に参陣し、伏見城築城や宇治川の土木工事などにも参加し、いずれも功を挙げた。 慶長4年(1599年)に利家が死去すると、後継者の利長に仕え、翌年の関ヶ原の戦いでは北陸で丹羽長重と戦い、浅井畷の戦いでは敗れながらも奮戦した。 慶長11年(1606年)に家督を長子の好連に譲り隠居したが、慶長16年(1611年)に好連が早世すると再び当主の座に復帰し、大坂の陣にも従軍した。これらの功績の数々から加増も受けて、長家は最終的に3万3000石の大身となる。 元和5年(1619年)2月3日、能登田鶴浜(現七尾市)にて死去。享年74(満72歳没)。家督は次男の連頼が継いだ。以降、子孫は加賀前田家の家老として3万3000石を領した。
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