加賀前田家へ伝来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/14 16:32 UTC 版)
その後前田利家に贈られたとされる。利家の手元に渡ってからは、唐櫃に収納され注連が張られたとされる。本作は病気の治癒と切れ味に関する伝承が残されている。前者は病人の枕元に置くと治り、返却すると再発するため貸借を繰り返し、三度目に贈与されるというものである。徳川幕府八代将軍吉宗が本阿弥家に命じて編纂させた名刀の目録である『享保名物帳』では豪姫のため利家が秀吉から贈与されたとされ、もう一説では秀吉から徳川家康に贈られた後、徳川秀忠と前田利常が珠姫のために貸借を繰り返す話となっている。 また、本作は切れ味を試すために山田浅右衛門吉睦によって試し斬りが行われた。これは1792年(寛政4年)8月19日に江戸千住の小塚原にて死刑囚の死体を用いて行われたものであり、1回目は一ノ胴(両腋の下)、2回目は車先(ヘソの辺り)を試したが、土壇を五寸(約15センチメートル)切り込んだ。3回目は骨が多く斬るのが難しいとされる雁金(腋のすぐ下)で試したが、これも先程同様に土壇まで切り込んだ。4回目には死体を3体重ねた三つ胴を試したところ、一番上と真ん中の死体は摺り付け(鳩尾)を両断し、一番下の死体は一ノ胴の少し上を切り裂き、背骨で止まっていたとされる。 元禄以降に記された拝領道具帳において、本作は1713年(正徳3年)以降それまで冒頭に記されていた富田郷に代わって冒頭に記されるようになる。1812年(文化9年)3月に本阿弥重郎左衛門が加賀藩江戸藩邸で前田家の名刀を手入れした際の記録にも本作が記されていることから、その時には江戸で保管されていたと考えられている。1856年(安政3年)に本阿弥喜三次に研ぎが命じられたあと箱に収められる。
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