加賀半国の支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/21 10:10 UTC 版)
政則は新しい所領の支配を整備するため、備前には一族の宇野上野入道を差し向けたが、備前守護の山名教之と交戦状態となり、新田荘の内、三石・藤野・吉永は含まれるか否かの訴訟まで起こされているが、幕府から退けられた。また在地の難波氏などが赤松家に協力したこともあり、幕府権力と在地勢力に支えられた政則の新領入部は困難を極めながらも開始されることになった。 伊勢の所領に関しては、所領が3つに分散された上に遠隔地だったため、文正元年(1466年)に政則は幕府に加賀国内の闕所地との替地を願い出て認められた。加賀入部に関しては赤松家と全く無縁の上に前守護である富樫氏の勢力が強かったため、長禄3年(1459年)10月の入部の際に富樫氏の家臣、在地の国人による激しい抵抗にあった(『蔭凉軒日録』)。加賀の支配は困難を極めたが、越中守護の畠山氏の支援もあり、富樫氏の旧臣である岩室氏の抵抗を受けながらも何とか順調に進んだ。 政則の加賀支配に関しては関連史料が少ないために不明な点が多い。僅かに『蔭凉軒日録』や『中村文書』、『上月文書』から確認されるところによると、政則は長禄の変の功績に応じて、あるいはその時に活躍した子孫や一族の中で有能な者を選び出して奉行人として編成していたこと、守護代には小寺氏を当てていたことが確認されている。
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