鎌倉・京への両属
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正治元年(1199年)、頼朝が死去した直後に起こった三左衛門事件では、首謀者の後藤基清らを拘束して院に引き渡した(『明月記』2月14日条)。正治2年(1200年)正月6日、鎌倉で椀飯の沙汰人を務めるが、同月24日には京都で梶原景時与党の追捕を命じられ、2月26日には2代将軍・源頼家の鶴岡八幡宮参詣に御後筆頭として随行するなど、京都と鎌倉を頻繁に往復していた様子がうかがえる。『吾妻鏡』ではその後しばらく所見しなくなり、建暦2年(1212年)3月20日、在京奉公の労により地頭職を拝領したとあるので、在京して鎌倉と京の連絡役を務めていたと思われる。この間の元久2年(1205年)の牧氏事件では北条時政により新将軍に担がれた異母弟の平賀朝雅が北条義時の命により誅殺されているが、惟義は事件に連座せず朝雅が有していた伊勢・伊賀守護を引き継いだ。なお『吾妻鏡』建暦2年(1212年)7月7日条には「駿河前司惟義」とあり、これ以前に相模守から駿河守に遷任していた。建保元年(1213年)8月の3代将軍・源実朝の移徙では、執権・北条義時の次位として随行している。 惟義は幕府から伊勢・伊賀・越前・美濃・丹波・摂津など近畿6ヶ国の守護に任命される一方、在京御家人の代表として後鳥羽院に近侍して朝廷との接触を深めていった。この時期には源氏一門を抑えて北条氏の幕府内での覇権が確立しつつあり、後に跡を継いだ大内惟信の行動(後述)から推測して、「心情的には朝廷方へ荷担する意図があった」と見る向きもある。 建保7年(1219年)正月27日、実朝が右大臣拝賀のために鶴岡八幡宮へ御参した際(この日、実朝は暗殺される)の『吾妻鏡』の記事中に「修理権大夫惟義朝臣」の名が見えるが、以降の消息は不明でこの年もしくは翌年に死去したものと思われる。 承久3年(1221年)、承久の乱が勃発。後鳥羽院ら京方の挙兵に対し、惟義の死後に近畿6国守護職を受け継いでいた子の惟信は、後鳥羽院の下へはせ参じ、京方として鎌倉幕府軍と戦う。しかし、あえなく敗戦して消息を絶ち、ここに源氏御門葉平賀・大内氏は滅亡する。 後鳥羽院が惟義を尊重した理由の一つに来るべき討幕の日のために歴戦の武将である惟義を味方に付けておきたいという思惑があったと考えられる。もし、承久の乱で若年の惟信ではなく惟義が朝廷軍を率いていたならば、戦況はまた違ったものになっていた可能性もある。
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