鋼鉄製レール導入
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1760年代後半、コールブルックデール社は木製のレールの上面に鋳鉄のプレートを固定し始めた。これにより軌間の様々なバリエーションを使用することができるようになった。最初はラケット型ループ線でのみ折り返し可能であったが、後に切替可能な可動点(後の分岐器)が使用されるようになった。 フランジのない車輪がL字型の金属板の上を走るプレートウェイというシステムが導入された。導入の正確な日付は議論されているが、シェフィールドの炭鉱管理者であるジョン・カーは1787年にこのL字型レールを発明した。1803年にウィリアム・ジェソップはロンドンの南部で、時に世界初の公共鉄道と誤って引用されるサリー・アイアン鉄道を開業させた。 一方、ウィリアム・ジェソップは以前、1789年にレスターシャー州ラフバラーのナンパンタンにあるチャーンウッド森林運河への鉄道を敷設する際には鉄製エッジレールとフランジ付きの車輪を使用していた。1790年、ジェソップとそのパートナーであるウートレムはエッジレールの製造を開始した。また、ジェソップは同年にバターリー・カンパニーのパートナーになった。最初にエッジレールを使用し建設された公共鉄道は1796年に開業したレイク・ロック鉄道であり、したがってこの鉄道が世界初の公共鉄道となる。この路線の主な目的は石炭を運搬する貨物輸送であったが、乗客の輸送も行っていた。 鉄道を建設するこれらの2つのシステム、L字型レールとエッジレールは19世紀初頭までずっと並んで存在し続けていた。しかし、フランジ付き車輪とエッジレールの優位性が証明されこの時代の鉄道の標準となった。 レールに使用されている鋳鉄は脆く重い負荷が掛かると簡単に破損してしまうため、重い荷重が掛かり続ける鉄道のレールとして満足のいくものではなかった。1820年にジョン・バーキンショーによって発明された錬鉄が鋳鉄に取って代わった。錬鉄(単に"鉄"とも)は破断する前にかなりの変形を受けることができる延性材料であったことから鋳鉄よりも鉄道のレールに適していた。しかし、1784年にヘンリー・コートが攪拌精錬法の特許を取得するまで、錬鉄の製造には莫大な費用が掛かっていた。1783年、コートは圧延法の特許も取得した。これらの製造法が確立されたことによりレールの製造コストが大幅に削減された。錬鉄の生産における次の重要な開発はジェームズ・ボーモント・ニールソン(1828年特許取得)によって開発された熱風法であり、これにより錬鉄の製造に必要なコークス(燃料)または木炭の量を大幅に減らすことに成功した。 鋼鉄を安価に製造することを可能にするベッセマー法の開発により1860年代後半に始まった鉄道の大幅な拡張の時代をもたらした。鋼鉄製レールは耐久性が非常に高いため、より重い機関車、より長大な編成に対応することが可能になり鉄道の生産性を向上させた。しかし、ベッセマー法では鋼に窒素を混ぜるために時間と共に徐々に脆くなっていった。19世紀の終わりごろ、平炉がベッセマー法に取って代わり、鋼鉄の品質が向上しさらにコストが削減されることになった。このように、鋼鉄はレールに使用する金属として不動の地位を確立し、全ての鉄道の標準となった。 1807年、世界初の旅客運送を行うトラム(路面鉄道)であるスウォンジー・アンド・マンブルズ鉄道がウェールズのスウォンジーとマンブルズの間に開通した。19世紀の終わりまで、馬は蒸気機関の発達後もトラムの牽引手段として好ましい方法であり続けた。主な理由としては、街中の通りを通るその性質上煙を大量に出す蒸気機関車は好ましくなかったことが挙げられる。
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