鉱泉、現在
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「バート・アーロルゼン」の記事における「鉱泉、現在」の解説
アーロルゼン市の「鉱泉」の肩書きは 1977年に承認された。1979年にヴェッターブルク近郊のツヴィステタール堰がその役目を終えた。この堰の主な目的は、ツヴィステ川の北側と西側に位置する地域を洪水から護ることであった。しかし、現在ではこの堰によって造られたツヴィステ湖の観光上の価値で知られている。 1985年、第1回の「アーロルゼン・バロック祝祭劇」が開催されたことで、この街に新たな伝統が生み出された。1990年には宮殿近くの「フュルストリッヒェ・ライトバーン」が祝祭演劇場として完成した。メンゲリングハウゼン地区のドイツ連邦軍駐屯地の改造が変化の予兆であった。対空ミサイル部隊の駐屯と、それまで駐屯していた装甲陸上部隊の削減が完全な空軍基地への移行の始まりであった。 グローセ・アレーと樹木園との間の新城館に、1992年に「ティンティウス・クリニーク」が設けられた。この病院は耳鳴り(= ティンティウス)や内耳の平衡感覚器官の疾患を治療しており、この分野では全国的に重要な施設である。それ以前、新城館はホテル営業を行っていた。1977年にはドリント AG が獲得して同チェーン7館目のホテルとして営業していた。そのホテルマネージャーには有名なホテルエキスパートのヴェルナー・フレーゲルが就任しており、このホテルは1982年まで成功裏に運営されていた。 ベルギーのNATO軍撤退に伴い、ベルギー兵舎(旧SS兵舎)は1994年に閉鎖された。立地条件の良い中央に位置するその跡地の運用が問題となった。メンゲリングハウゼンでは、陸軍部隊がプリンツ・オイゲン兵舎を明け渡し、対空ミサイル部隊が2部隊配置され、約360人の兵士を擁する純粋な空軍基地となった。 1997年1月22日にこの街に「バート」(温泉・鉱泉を意味する)の肩書きが与えられた。空き地となった旧ベルギー兵舎の技術部門跡に、2000年に近代的な娯楽・レクリエーション・プール「アロベラ」が造られた。ここには、屋外プール、サウナ、付属健康センターがある。100 m の長さのウォータースライダーも魅力の1つである。 2002年に、厩舎棟にクリスティアン・ダニエル博物館が設けられたことで、宮殿はもう一つの文化施設となった。 約 360 人の空軍兵士が駐屯するようになったメンゲリングハウゼンのプリンツ・オイゲン兵舎の兵力は、組織改編によって約 400 人に増加する事になった。兵舎や軍事演習場に対する、数百万ユーロを要する大規模な改修と近代化が2002年に開始され、空軍部隊のバート・アーロルゼンへの移転が準備された。 2003年、バート・アーロルゼンで第43回ヘッセンの日が開催された。夏らしい気候に恵まれたことで約 78 万人がこの街を訪れ、ヘッセン州の外にもこの街を広く知らしめた。しかしバート・アーロルゼンにとっては、この開幕直前に発表されたメンゲリングハウゼン地区の連邦軍駐屯地閉鎖の予告が大きな打撃であった。新しい部隊の配備は停止され、編成や部隊および基地管理部門の解消・移転がなされた。 バート・アーロルゼンは2005年の夏に軍事都市の地位を喪失した。プリンツ・オイゲン兵舎は2005年12月に最終的に閉鎖され、全部隊は撤収あるいは解体された。バート・アーロルゼン市は、その跡地を買い取った。 2007年までに、シュロス通りとバーンホーフ通りで大規模な道路工事が行われた。バート・アーロルゼンの中心街は大型トラックの往来が禁止された。教会広場の改造は2007年末に、中心街に新たな姿を与えて完了した。また、2007年と2008年に旧パンツァー通りは南バイパスに改造され、連邦道となった。同時にそれまで中心街を通っていた連邦道は市道に格下げされた。これにより、大型トラックや通り抜けの通行量軽減が果たされた。 2009年春にプリンツ・オイゲン兵舎の一部が取り壊された。ここには、環境破壊をしないバイオマス発電所(オガクズ発電)が設けられた。その他の建物をバート・アーロルゼン市は企業向けに賃貸ししている。
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