金融崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 06:31 UTC 版)
「ロシア史 (1991年-現在)」の記事における「金融崩壊」の解説
詳細は「ロシア財政危機」を参照 1998年の世界的な景気後退は、1997年7月のアジア通貨危機と共に始まり、ロシアの継続的な経済危機を悪化させた。世界の商品価格の下落を受けて、原油のような原材料の輸出に大きく依存する国は、最もこの深刻な打撃を被った国である。国際価格に左右される脆い国を除いて原油や天然ガス、金属、材木は、ロシアの輸出の80%以上を計上している。原油はロシアの財政状態や外貨交換店、究極的にはルーブルの価値にとって重大なマイナスの影響を齎した税収の主要な財源でもある。 経済の弱さに悪影響を与えるルーブルに対する圧力は、通貨価値における悲惨な下落を引き起こした。大規模な脱税が続き、金融の不安定な状態と行政能力の減少を加速した。このことは更に歳入を減少させ、間もなく中央政府は積み重ねた大規模な債務の利息を払うことができず、最終的には公務員に対して給料を支払うことができなくなった。政府は賃金や年金、貸主への負債の時機に適った支払いを停止し、労働者が支払いを受ける場合は現金よりも現物支給の場合が珍しくなかった。炭鉱労働者は特に打撃を受け、夏の数週間デモにより事実上国土を二つに分けるシベリア鉄道の保線区を封鎖した。時間が経つと、賃金に関する要求に加えてエリツィンの退陣という要求を加えた。 政治的危機はエリツィンが突然3月23日に首相のヴィクトル・チェルノムイルジンと閣僚全員を解任した3月に最高潮に達した。エリツィンは事実上無名の元科学者の政治家でエネルギー相セルゲイ・キリエンコ(35歳)を首相代行に任じた。ロシアの評論家は、キリエンコの若さと経験のなさに疑問を呈し、ドゥーマは2度指名を拒否した。1か月間行き詰まった末にエリツィンが議会を解散すると脅すと、ドゥーマは4月24日に3度目の投票でキリエンコを承認した。 キリエンコはロシアの通貨価値の下落を止めるのに強力に関わることのできる新内閣を任命した。新興財閥は交換レートを維持するキリエンコの努力を強力に支援した。高い交換レートは、輸入品特に贅沢品を買うのに殆どルーブルを必要としないことを意味していた。 通貨を支え資本流出を止める奮闘の過程でキリエンコは国債の購入者を引き寄せる為に金利を150%に引き上げた。しかしアジアの通貨危機や世界の原油の価格の急落に関する憂慮は、既に投資家にロシアから引き上げるよう駆り立てていた。1998年半ばまでにロシアが交換レートを維持するのにIMFの助けが必要になることが明らかになった。 ロシアの危機は西側の不安の原因になった。ロシア経済に更に資金をつぎ込むことは長期的には解決には繋がらなかったが、特にアメリカ合衆国はエリツィン政権がIMFの支援がないことで緊迫した金融危機を乗り越えられないことを恐れた。ビル・クリントン大統領の財務相ロバート・ルービンも、ロシアの崩壊が国際金融市場で恐慌を引き起こしかねないことを恐れた(実際にアメリカ合衆国の主要なヘッジファンドロングターム・キャピタル・マネジメントを倒産させる契機となった)。IMFは7月13日に226億ドルの緊急支援のローンを承認した。 債務棚上げにもかかわらずロシアの毎月の金利支払いは、依然として月々の税収をかなり上回った。この状況が非常時であることを理解し投資家はIMFの債務棚上げにもかかわらずロシアから逃げ続けた。何週間か経ち金融危機は再開しルーブルの価値は再び下落を始め、政府は永続可能な罠に陥った。ローンの金利を支払う為に外国からの借り入れを通じた現金が依然として更に必要となった。指導者は益々政府が債務に関して遂行できないことが確実になった為に罠を深くする過去最高の金利を要求した。結局バブルははじけた。 8月17日、キリエンコ政権と中央銀行は、ロシアの対外債務の90日間支払い延長と国家の全債務の移転、ルーブルの切り下げを余儀なくされた。ロシアが必死にドルを買うよう要請したためルーブルは急落に陥った。西側の債権者は大いに損失を被り、多くの銀行には実際にドルを借りている人がいた為に未熟な銀行部門の多くが崩壊した。外国の投資は激しく流出し、金融危機はロシアからの前代未聞の資本流出を引き起こした。
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